人間の「バカな姿」をあぶり出すポケモンGO…画面に夢中で無自覚な「みっともない」大人たち
近年、まれに見るヒットサービスとなった「ポケモンGO」。いい年をした大人が深夜に公園にたむろして周辺住民からの苦情が殺到したり、車に乗りながらポケモンGOをプレイして検挙されたり、などのみっともない例が散見される一方、「ポケモンウェルカム」でブーム便乗を狙う自治体もある。
あまりの過熱ぶりに、冷めるスピードも速そうな予感がするが、ポケモンGOの熱の現状を伝えたい。
御巣鷹山や平和記念公園がポケストップに
ポケモンGOはGPS(全地球測位システム)と連動しており、スマートフォン(スマホ)の画面の中にポケモンが現れるため、現実の中にポケモンが「いる」かのように見えるのが醍醐味のゲームだ。さまざまなポケモンを集めて「ポケモン図鑑」をコンプリートしたり、ポケモンを鍛えてバトルさせたりといった楽しみ方がある。
その仕組み上、歩きスマホが誘発されるポケモンGOだが、問題はそれだけにとどまらない。常識的にいかがなものかと思うような場所で、ポケモンやポケモンを入手するための道具がゲットできてしまうのだ。
まず、1985年の日航機墜落事故現場である「御巣鷹の尾根」のふもとにある追悼施設「慰霊の園」だ。こちらは、ポケモンをゲットするために必要なモンスターボールを入手できる「ポケストップ」になっており、物議を醸している。
また、広島県広島市は、ポケストップやポケモン同士が対戦できる「ジム」を広島平和記念公園周辺から削除するよう、開発会社のナイアンティックに要請、実際に削除された。公園内のいくつかのポイントがポケストップやジムになっており、地元住民からは苦情の声が上がっていた。
先の熊本地震で、ごく一部のヒステリックな人たちによる「不謹慎狩り」があり、それをメディアが社会現象や社会の病理のように取り上げて火に油を注ぎ、うんざりしたのは記憶に新しい。
しかし、御巣鷹山の慰霊の園や広島平和記念公園がポケストップになるのは不謹慎だ。熊本地震で不謹慎狩りにエネルギーを費やしていた人たちは、今こそ正義感を炸裂させる千載一遇の好機のはずだが、いったい何をしているのだろう。ナイアンティックはアメリカ企業のため、英語が壁になっているのだろうか。
また、「方針転換」した場所もある。浄土真宗本願寺派の本山である京都府の西本願寺は、当初、境内でのポケモンGOを禁止していたが、一転して認めた上、プレイヤーを歓迎する看板まで出したという。拝観料収入ゲットのための苦肉の策かと思いきや、西本願寺はもともと無料で入ることができる。人が増えれば賽銭は増えるかもしれないが、宗教施設は大衆に媚びずに気高くあってほしかった。
鳥取砂丘でポケモンゲットだぜ?
一方、「ポケモンウェルカム」とノリノリな自治体もある。スターバックスコーヒーが最後に出店した都道府県でもある鳥取県では、鳥取砂丘のポケモン誘客に注力。平井伸治県知事が「鳥取砂丘スナホ・ゲーム解放区宣言」をしている。
鳥取県庁では、緊急の「ポケモンGO大作戦会議」が開かれた。ポケモン用語が飛び交う県首脳会議を想像するとシュールだが、鳥取砂丘にはポケモン目当ての観光客が増えているという。しかし、目の前の画面に夢中な人たちに、どこまで「砂丘の思い出」が残るかは謎だ。
また、2015年秋に原子力発電所事故からの避難指示が解除された福島県楢葉町では、ポケストップやジムを町内に多数設けて観光客誘致をもくろむという。
各種報道ではネガティブな取り上げられ方も多いポケモンGOだが、「ネガティブだからニュース映えする」という面もあり、個々の例を見ると「子供とひさしぶりに交流できた(13歳未満がプレイする場合は保護者がアカウントを取得し、紐付けるかたちで子供のアカウントを取得する)」「外に出ないと楽しめないゲームなので、ダイエットのいいモチベーションになる」など、今の生活をより良くする有用な使い方をしている人も少なくない。
ポケモンGOがさらけ出す、無自覚な大人のみっともなさ
ポケモンGOの怖さは、プレイヤーが自分のみっともなさに気がつかない点にあるだろう。駅ビルの手芸用品店で買い物をしていた時、20代の男性2人と女性1人の3人組がスマホをかざしながら店に入ってきて、「ニャース(ポケモンのひとつ。アニメでもレギュラークラスの猫のキャラクター)がいる!」とひとしきりはしゃいだ後、何も買わずに出て行った。
静かな店内は「なんなんだ、こいつら」という空気に包まれていたが、当の3人は、その雰囲気にまったく気付いていなかった。見るからにオタクっぽいというわけでもなく、むしろ、さわやかな感じさえする3人組だった。
私自身、ゲームも漫画も小さいころから大好きで、そのまま大人になり、「ゲームと漫画の先進国の日本に生まれて本当によかった」と思うくらい、自分にとってかけがえのない趣味だ。
一方で、1980年生まれという世代もあってか(任天堂のファミリーコンピュータが発売されたのは83年)、「これは、大人がやるには配慮の必要な趣味だ」という感覚も同時にある。
私が高校生の頃、オタク的な趣味のある人は、カタギのしがらみとは決別したと思われる超ゴーイングマイウェイの「怒涛のオタク型」か、同好の士が集まる場所では己を開放し、あとは社会に紛れる「隠れオタク型」の二派に分かれた。両者に共通するのは、「オタク趣味を、大人の自分がやっている」という自覚で、開き直るのが前者で隠れるのが後者だ。
しかし、その感覚はここ10年でずいぶん薄れ、緩んだ。アニメ絵の美少女が歌うスマホゲームのテレビCMに有名タレントが出演し、ゴールデンタイムに流れるまでになったのだ。
「オタク趣味のあるヤンキー」など、自分が10代の頃は「しょっぱい砂糖」くらい相容れない価値観だったが、今は普通に存在する。「アニメや漫画、ゲームが好き」と職場で公言できるようなカジュアル化が進んだのだ。
この裾野の拡大が「クールジャパンブーム」(この言葉も、もう古いが)を支えたのだろうが、一方で、「葛藤」がないままカジュアルに何気なく好きでいることが、前述した3人組のような無邪気さや無自覚さにつながっているのではないだろうか。
若いとはいえ、もう学生という年でもない大人が、歩きスマホで買い物する気もない店に入り、友達とはしゃぎながらウロウロするという行動は幼い。そして、その自覚や危機感が当の本人たちにまったくないというのが怖い。
ゲームが現実を侵食するポケモンGOの功罪
さらに、ポケモンGOはゲームの特性上、「現実と地続き」だ。例えば、東京ディズニーランドで遊んでも帰りのJR京葉線で現実に戻っていくが、いつも歩いている街角や自宅にポケモンが出てくる可能性のあるポケモンGOは、現実とゲームの境界線をぼかしていく。
ディズニーで買った浮かれた感じのおみやげ袋などは、地元の駅近くになると、ディズニー帰りというのが見え見えで気恥ずかしい。近所でポケモンGOをしているというのは、ミッキーマウスの耳型ヘアバンドをつけた状態で近所をうろついている状態と大差ない。
童心に帰る場所と時間帯は、選んだほうがいいはずだ。日常に近い場所、しかも公共の場所で、さらにほぼ毎日、童心に帰る姿を人前にさらすことへの違和感や恥ずかしさは大切にしたほうがいいと思うが、あと10年もしたら、これを「おかしい」と思う感覚はさらに薄れていくのだろう。
ポケモンGOですら、この状態なのだから、VR(仮想現実)ゲームが本格普及したら、いよいよ“夢の国”から帰って来られなくなる人も少なからず出てくるだろう。自分の生活や自分自身を損なわず、豊かにする範囲でゲームを使う、というのは本当に難しい。
(文=石徹白未亜/ライター)