「IT開発者はラリってた!?」PC開発とドラッグの深い関係
さらに、アンペックスの役員会でLSDを用いた研究プロジェクトを提案するが却下されたため、61年に同社から退いて国際高度研究財団を設立。それは、500ドルでLSDと人間の創造性に関する各研究課題へ参加できる組織で、シリコンバレーの優れた科学者、研究者、技術者など350人以上に実験が行われた。そこにダグラス・エンゲルバートもいたのは、コンピュータによる人間の知性の拡大という自身の研究と通じる部分があったからだ(第1回参照)。66年に米食品医薬品局の要請で財団の公式実験は終了するが、すでにベイエリアではLSDを治療に導入する精神科医や心理学者がおり、ビート作家もLSDを用いて創作。60年代後半にはLSDと各種運動が連動してカウンター・カルチャーの大きなうねりは全米に浸透し、軍の出資を受けるSRIやスタンフォード大のキャンパスにも波及、後にパーソナル・コンピュータを生み出す若者をインスパイアしたのだ。
「サイケデリック・ドラッグであるLSDを摂取した当時の人びとは、視覚が歪んだりグルグル回ったり、未知の体験をしました。そして精神が解放され、抑圧された人間の潜在能力が拓かれるように感じ、国の世話にならなくても個人でクリエイティヴなことができると思う人もいた。まあ、気が大きくなっただけかもしれませんが、そんな幻覚剤はほかのカウンター・カルチャーと結びついたり、不安な時代だったために流行っていた自己啓発セミナーのような集会で瞑想と併せて用いられたりするなか、ストラロフはLSDが人間の創造性を強化する道具だと考え、コンピュータ開発にその幻覚剤が導入されるようになったのです。
このような時代に、人びとの望む社会が中央集権的なものから個々人の集合体へとパラダイム転換が起きたといえます。そんな新しいヴィジョンをベイエリアの若者はLSDによって仮想的に見た。当時のコンピュータ開発はそれに追いつきませんでしたが、その流れをシステム的に支えたことで後に西海岸で最初のパーソナル・コンピュータが誕生し、インターネットのような形で個人が分散化した環境が実現したわけです」(服部氏)
とすると、IT文化の発展にはLSDが不可欠だったのか? 服部氏は続ける。
「ドラッグ・カルチャーとコンピュータ文化が交わったことに必然性はなかったと思います。実際、60年代の西海岸で多くの若者はラリっていただけですからね(笑)。ただ、仮にLSDがなかったらパソコンが生まれたのか? 各家庭にはいまだに昔のIBMの冷蔵庫みたいなコンピュータがあり、中央制御的なシステムで管理されていたのかもしれない」
言うまでもなくLSDは現在、米国でも日本でも違法薬物であるため、推奨するわけではないが、あの時代のサイケデリック・カルチャーはITの歴史を語る上で避けては通れない事柄なのだ。そんな幻覚剤とストラロフの財団の実験で出遭い、68年に雑誌「ホール・アース・カタログ」を創刊したスチュアート・ブランドという人物の話を次回はしよう。
(文責=砂波針人)