「IT開発者はラリってた!?」PC開発とドラッグの深い関係
第1回で取り上げたダグラス・エンゲルバートというエンジニアは、幻覚剤のLSDを試したこともあった。それは、60年代のカウンター・カルチャーを象徴するドラッグがコンピュータ開発の場にも紛れ込んだことを示しているが、その過程をひも解く前にカウンター・カルチャーについてざっと整理しよう。
ヒッピー、コミューン、ドラッグ、ロック、ビートニク、公民権運動、ベトナム反戦、ゲイ解放……。カウンター・カルチャーとは60年代に米国の若者たちによって隆盛したそれらの総称で、既存の文化や体制に反抗した点で、各運動は共通する。サンフランシスコ・ベイエリアを中心地とするそんなカウンター・カルチャーは、それぞれが連動して67年に“サマー・オブ・ラヴ”というハイライトを迎えた。この時代のアメリカにおけるドラッグやコンピュータについて、『パソコン創世「第3の神話」』(NTT出版)の訳者・服部桂氏はこう話す。
「アメリカは原爆を日本に落とし、第二次世界大戦を終結させました。ただ、原爆は何発か落としたら世界が滅び得る究極のテクノロジーだったので、戦後の冷戦が第三次世界大戦に発展することに、人びとは本気で怯えました。その緊張が緩和されずに新たにベトナム戦争が始まり、アメリカでは大学生くらいの若者が徴兵されるようになった。彼らはテレビを通じて、同世代の自国の人間がベトナムで殺されるのを見てショックを受け、自分も同じ戦場で死ぬかもしれないことに不安を覚えたのです。そうしたストレスや不安からの逃げ場としてドラッグが使われました。また、理系の学生ならコンピュータ開発も逃げ道で、軍が兵器開発を依頼していた大学で、ベトナム戦争でのシミュレーション・プログラムなどを研究すれば、戦地に行かずに済んだのです」
では、ドラッグとコンピュータ文化はどう交差したのか。スイス人科学者アルバート・ホフマンが43年に幻覚効果を発見したLSDの伝道師としては、ハーバード大学で幻覚剤の研究をしていた心理学者ティモシー・リアリーや、コミューンを率いてLSD体験イベント「アシッド・テスト」を全米で行った作家ケン・キージーなどが一般的に挙げられるが、現在明らかになっている事実を追いたい。
そこでキーパーソンとなるのが、シリコンバレーにあったアンペックス社でテープレコ―ダーのビジネスを手がけた技術者マイロン・ストラロフだ。50年代、「人間は手つかずの潜在能力を持つ」と主張するスタンフォード大学の商法学者ハリー・ラスバンの瞑想集会「セコイア・セミナー」にストラロフは加わり、そこで出会った作家ジェラルド・ハードよりLSDという新薬とそれをカナダから調合しにやって来るアル・ハバートという人物の話を耳にした。米国が原爆開発時にウランの闇取引をした疑いもある男だが、興味を持ったストラロフは彼と会い、LSDを体験すると、それが人類の進歩を促す道具になると確信。やがてLSDの研究会を立ち上げ、アンペックス、ヒューレット・パッカード社、SRI(スタンフォード研究所)などに属す少数のエンジニアたちを、サイケデリック薬の世界へ誘った。