たとえば、902年(延喜2年)に作成された「阿波国(あわのくに)戸籍」を見ると、男性よりも女性の数が圧倒的に多く、高齢者、とくに100歳以上の老人も少なくない。現在より衛生状態や医療が劣っているにもかかわらず、100歳以上が多いとは不自然だ。当時、女性は男性より税額が少なく兵役もない。また、60歳以上の者には税が課されなかった。税逃れのために、戸籍を偽造したのだ。
「荘園」と呼ばれる大規模な私有地も、免税を原動力として発達する。荘園の始まりは8世紀にさかのぼるが、租税の免除(不輸)を認められなかったこともあり、経営が不安定で、9世紀には衰退した。しかし荘園領主の権威を背景として、やがて政府から不輸の権を承認してもらう荘園が登場し、次第に増加する。荘園によって免税の恩恵を受けた代表は、庶民から税を取る立場の皇族や貴族である。
天皇の命によって諸国に設置された皇室領を勅旨田(ちょくしでん)といい、奈良時代から存在したが、9世紀以降に多く現れ、荘園化した。勅旨田は免税扱いとされ、経営には天皇の近臣があたったらしく、近臣が行政官である国司に任命される場合すらあった。この収入は天皇個人や皇室の運営費用にあてられたようだ。
天皇と親しい少数の皇族・貴族も、その立場を背景に多くの土地を私的に集積した。彼らは院宮王臣家(いんぐうおうしんけ)と呼ばれ、国家財政と衝突することも起こった。寺院も荘園を蓄積していった。
中央政府から派遣された国司、院宮王臣家、寺院などは互いに牽制し合いながら、保護を求める地方の有力農民を勢力下に取り込んでいった。今でいえば、富裕層が税の軽い国を求めて財産や住まいを移すようなものだ。
税逃れ横行の背景
平安時代のこうした税逃れ、特に庶民による税逃れは、必ずしも悪として断罪できない。それだけ厳しい税の取り立てに責められていたからだ。
国司のうち最上席の長は受領(ずりょう)と呼ばれた。受領は中央政府にとっての徴税請負人で、課税率をある程度自由に決めることもできたため、私腹を肥やし巨利をあげる強欲な者が多かったといわれる。
『今昔物語集』の説話で、「受領は倒るる所に土をつかめ」と言った信濃守藤原陳忠(のぶただ)の話は有名だ。誤って馬ごと崖から落ち、縄で引き上げられたときに、生えていたキノコを手にたくさん抱えて上ってきて、放った言葉である。