四代目体制から五代目体制へと代目継承が挙行された山健組【参考記事:「山健組」、ついに5代目体制へ移行】。新体制について、さまざま噂が飛び交ったなかで、次第にその全貌が明らかになってきた。
すでに山健組舎弟と兼任するかたちで神戸山口組の直参へと昇格を果たしていた“播州の顔役”邦楽會・福原辰広会長【参考記事:神戸山口組に新直参が誕生】は、五代目山健組では副組長に就任。副組長とは、神戸山口組が発足された際に四代目山健組で新設されたポストで、任侠山口組・織田絆誠代表が山健組を離脱するまで務めていた重職である。それだけに、福原会長に寄せられる期待の大きさが窺える。
そして組織の要となる若頭には、四代目体制で本部長を務めていた與(あたえ)組・與則和組長が就任したことが明らかにされた。
與組長といえば、三代目山健組で本部長を務めた片岡組(解散)の出身。片岡組がまだ三代目山口組佐々木組(解散)傘下だった頃、二代目松田組との間で起こった大阪抗争(1975年から78年にかけて、三代目山口組と二代目松田組との間で起こった抗争)では、松田組傘下組織・大日本正義団会長を射殺した事件に関与したとして逮捕されている。
この事件の報復として、1978年に“山口組中興の祖”田岡一雄・三代目山口組組長が京都府内のクラブ「ベラミ」で大日本正義団組員に襲撃されるという、通称「ベラミ事件」が起きており、そこからの山健組を中心とした三代目山口組による二代目松田組への攻撃は、まさに熾烈を極めたといわれている。
大日本正義団会長射殺事件に関与したとして逮捕された與組長は、有罪判決を受け、大阪刑務所へと収監されている。筆者は、この時、與組長と同じ工場で務めたことがある人物に話を聞いてみた。
「私が傷害致死などの罪で大阪刑務所に服役したのは、1984年頃。“24工場”と呼ばれる金属工場に配役されたのだが、すでにその工場には、若き日の與組長が配役されていた。大阪刑務所のなかでも当時の24工場は人員も多く、多い時には120人はいたのではないか。計算工といって、作業を取り仕切り、工場担当の刑務官を補助する立場の懲役(服役囚)が3人いたのだが、そのうちの1人が與組長で、服役囚たちから一目置かれるだけでなく、刑務官からも信頼される立場だった」
反故にされやすい刑務所内での約束事も守る親分
今では、現役のヤクザが計算工といった役目を負うことはできなくなったが、與組長らが務めていた時代の刑務所では、社会でも影響力をもつ受刑者には計算工や班長といった役を任せ、服役囚たちの組織を取りまとめさせ、工場をうまく運営させていたといわれている。
「他の計算工は1人が無期懲役の人間で、もう1人が京都の組織の懲役囚だった。その京都の人が服役中に所属していた組織が解散し、出所後には與組長のところで世話になることになった。與組長は、そもそも山口組の抗争で身体を賭けたジギリ(組織のために起こした事件)で懲役を受けたわけだし、刑務所の中でも人望が厚かった。京都の人が與組長を頼ったのも、そうした人柄だったからだろう」
刑務所内での約束事は出所後には反故にされることが多い。だがその人物が出所した際の出迎えには、與組長の姿があったという。
「私は京都の人と仲が良かったので、放免祝にも行ったが、與組長も来られていた。その後、與組長が所属していた片岡組傘下の陽田組(解散)事務所のドアに鉄板を入れることなった時、その人から業者を紹介してほしいという連絡が私にあった。與組長のところでがんばっておられるんだなと思ったと同時に、與組長の面倒見の良さを感じた」
片岡組解散後、自ら與組を起こした與組長は山健組の直参へと昇格を果たし、瞬く間に執行部入りを果たすと、若頭補佐、本部長を歴任し、今回の五代目体制では一家の要となる若頭に就任することになったのだ。
中田浩司組長をトップとする新体制がスタートし、副組長には福原会長。そして若頭には與組長。歴史と伝統ある山健組に、新たな息吹が吹き込まれたのは間違いないだろう。
(文=沖田臥竜/作家)