徴兵の非人間性を歌った古典
家族を引き裂く防人の制度が、徴兵された人々をいかに精神的に追い詰めるものだったかを伝える話が、万葉集とほぼ同時代に編まれた日本最初の説話集「日本霊異記」にある。
聖武天皇の時代、武蔵国(東京都)の吉志火麻呂(きしのひまろ)という人が防人として徴発され、妻を残し、母と一緒に筑紫に赴いた。時が経つにつれて妻に会いたくなり、母を殺して喪に服し、故郷に帰ろうとしたが、母を殺そうとした瞬間、地の裂け目に落ちて死んだという。
安倍首相は前出の談話で、万葉集について「天皇や皇族、貴族だけでなく防人や農民まで幅広い階層の人々が詠んだ歌が収められ、我が国の豊かな国民文化と長い伝統を象徴する国書であります」として、防人歌や東歌に触れた。
しかし、ここまで述べたように、万葉集に収められた庶民の歌には、天皇や貴族を頂点とする政府によって強制された、労働や兵役の苦しみ、家族との別れの悲しみが歌われている。「国民文化」などという言葉で、支配する者とされる者との対立をあいまいにしては、万葉集の真実は伝わらず、防人たちは浮かばれないだろう。
今の日本には幸い、徴兵制は存在しないが、海外ではフランスやスウェーデンのように、テロ対策や安全保障を理由に徴兵制を復活させる動きもある。「令和」をきっかけに注目を集める万葉集は、戦争の地ならしであるナショナリズム発揚の道具としてではなく、徴兵の非人間性を歌った古典として、多くの日本人に読まれるべきである。
(文=木村貴/経済ジャーナリスト)
<参考文献>
阪下圭八『万葉集 東歌・防人歌の心』新日本新書
中西進『古代史で楽しむ万葉集』角川ソフィア文庫
中西進『万葉の秀歌』ちくま学芸文庫
佐佐木信綱校訳『万葉集(現代語訳付)』やまとうたeブックス
関和彦『古代農民忍羽を訪ねて』中公新書