複数の愛人を抱える巨大新聞社長、女たらしの面目躍如 奥さんが怒鳴り込んできたことも…
【前回までのあらすじ】
業界最大手の大都新聞社の深井宣光は、特別背任事件をスクープ、報道協会賞を受賞したが、堕落しきった経営陣から“追い出し部屋”ならぬ“座敷牢”に左遷され、飼い殺し状態のまま定年を迎えた。今は嘱託として、日本報道協会傘下の日本ジャーナリズム研究所(ジャナ研)で平凡な日常を送っていた。そこへ匿名の封書が届いた。ジャーナリズムの危機的な現状に対し、ジャーナリストとしての再起を促す手紙だった。そして同じ封書が、もう一人の首席研究員、吉須晃人にも届いていた。吉須と4ケ月ぶりに再会した夜、ふたりが見かけたのは、社長の松野が愛人との密会現場だった。
白焼きを口に運びながら考え込むような趣だった深井宣光が、急に箸を止めた。
「さっき、松野(弥介)が月曜日の夜、ここ(「美松」)にいたって断言したのはわかりましたよ。それでこの店に来たんですね?」
「でも、それだけじゃないんだ。君はもっと驚くぜ」
ニンマリした吉須晃人が続けた。
「実はな、エレベーターを降りて玄関のところまで来たら、うちの村尾(倫郎)が玄関に向かって歩いて来るじゃないか。玄関を出ずに慌てて脇の柱に隠れて彼を眼で追ったんだ」
「へえー、それはびっくりですね。村尾社長もリバーサイドに来たんですか」
「いや、違うんだ。ホテルに入らずに、タクシー乗り場からタクシーに乗ろうとしたんだ」
吉須はロビーの柱の陰から見た光景を話すと、ビール瓶を取り、深井にグラスを持つよう促した。そして、自分はお猪口に熱燗を手酌して飲んだ。
「吉須さんはどうしたんですか?」
「俺か。村尾がタクシーに乗ったんで、すぐに待たせていたタクシーに乗り込んださ」
「え、村尾社長のタクシーの後でもつけたんですか」
「そう、つけたんだよ。愛人の女性記者のマンションに行くんじゃないかと思ってね」
「確か、芳岡(由利菜)とかいう記者ですね」
「ふむ。彼女のマンションは市ケ谷だ。俺はそこに向かうと思っていた。俺の自宅も四ツ谷と麹町の間にあるから、方向は同じなんだ」
「それでどうなんですか。愛人のところに行ったんですか」
「最初は市ケ谷に向かっていた。でも、違ったんだ。新大橋通りを左折して小舟町、大手町、千鳥ヶ淵、一番町を通って日テレ通りを走る。ここまでは俺のところも彼女のところも同じだ。でも、彼女のところに行くには日テレ通りを右折して市ケ谷の外堀を渡るんだが、車は麹町の方に左折して新宿通りに出た。俺の自宅の方なんだ」
「どこに行ったんですか?」
「なんのことはない。村尾が最近引っ越した高級賃貸マンションだった。1月末に神楽坂から突然、四ツ谷の方に引っ越したといわれていたけど、どこかは知らなかった」
「どこなんですか?」
「四ツ谷駅から5分くらいのところ、二番町さ。俺は六番町だろ。本当に目と鼻の先だ」
「吉須さんはどうしたんですか?」
「村尾のタクシーが止まったところから、50メートルくらい手前で降りたよ」
「マンションは新宿通り沿いにあるんですか?」
「ちょっと路地を入ったところだけど、タクシーを降りたのはマンションの反対側だ。村尾が信号を渡ったんで、少し慌てたよ」
「え、マンションに入るところは見届けられなかったんですか?」
「信号待ちしたけど、それが大丈夫だった。なぜかわからんけど、村尾が立ち止まってタバコを吸ったりしていたからね」
ここまで話すと、吉須は熱燗を独酌して肝焼きをほおばった。深井も白焼きの残りをつまみながら、ビールを飲んだ。そして、吉須を冷やかすように聞いた。
「吉須さん、立ちんぼして“張り番”しなかったんですか?」
「そこまでしなかったさ」
「そうだけど、もしかしたら、彼女が来たかもしれないじゃないですか」
「まあ、その可能性はあるが、これだけ俺の自宅から近所だといつでもできるからな。でも、彼女のマンションは市谷左内町、村尾の前の神楽坂のマンションも、今度の二番町のマンションも、そこから歩いて15分か20分の距離だ」
吉須の解説を聞いて、深井は美舞から聞いた話を思い出した。
「ああ、そうだ。村尾さんの愛人の芳岡記者、もう日本に帰っているんですね」
「2月中旬に帰国したって、聞いている」
吉須はそう言うと、手を叩いて老女将を呼んだ。
「そろそろ、蒲焼と飯を頼みます」
老女将が食事の準備を整え、部屋に入ってきた。そして、卓袱台に蒲焼などを並べ、御櫃から茶碗のご飯をよそって、2人の前に置いた。老女将が出て行くと、蒲焼をご飯に乗せて食べ始めた吉須が口を開いた。
「深井君も面白い話があるって言っていたな」
「さっき、そう言いましたけど、今の話を聞くと、大したことないかもしれません」
「大したことなくてもいいから話してみろよ」
「話は3つあったんですけど、1つはちっともおもしろくないです。村尾社長の愛人の芳岡記者が日本に帰っているという話で、吉須さんはもう知っているじゃないですか」
「うちの連中はみな知っているぞ。俺は旅行から帰った直後の10日ほど前に聞いたんだけどな。君は誰に聞いた?」
「ほかの2つの話もそうですけど、一昨日舞ちゃんと飲んだ時に聞いたんです」
「なんだ。ネタ元は舞ちゃんか。俺も彼女に噂を聞いて現役に確認したんだ。ほかの2つの話も知っているかもしれないな」
「知らないと思います。1つはやっぱり村尾社長の愛人の話です。もう1人いるんです」
「そりゃあ、女誑(たら)しだから、ほかにもいて不思議はないし、俺も30年くらい前に彼が別の女と付き合っていて、奥さんが記者クラブに怒鳴り込んできたのに遭遇しているしね」
「そんなことがあったんですか」
「俺、昭和56(1981)年春から1年間、村尾と日銀記者クラブで一緒だったんだ。俺は村尾の隣の席でね、事件に遭遇したんだ」
吉須は冷めた熱燗をお猪口に注ぎ、それを口に運びながら記憶の糸を辿った。
(文=大塚将司/作家・経済評論家)
【ご参考:第1部のあらすじ】業界第1位の大都新聞社は、ネット化を推進したことがあだとなり、紙媒体の発行部数が激減し、部数トップの座から滑り落ちかねない状況に陥った。そこで同社社長の松野弥介は、日頃から何かと世話をしている業界第3位の日亜新聞社社長・村尾倫郎に合併を持ちかけ、基本合意した。二人は両社の取締役編集局長、北川常夫(大都)、小山成雄(日亜)に詳細を詰めさせ、発表する段取りを決めた。1年後には断トツの部数トップの巨大新聞社が誕生するのは間違いないところになったわけだが、唯一の気がかり材料は“業界のドン”、太郎丸嘉一が君臨する業界第2位の国民新聞社の反撃だった。合併を目論む大都、日亜両社はジャーナリズムとは無縁な、堕落しきった連中が経営も編集も牛耳っており、御多分に洩れず、松野、村尾、北川、小山の4人ともスキャンダルを抱え、脛に傷持つ身だった。その秘密に一抹の不安があった。
※本文はフィクションです。実在する人物名、社名とは一切関係ありません。
※次回は、来週10月25日(金)掲載予定です。