5月5日午前4時40分頃、首相官邸にある守衛所のトイレ個室内で、警視庁機動隊員の25歳の男性巡査が血を流して倒れているのが見つかり、搬送先の病院で死亡が確認された。近くには貸与された拳銃が落ちており、自殺を図ったとみられているが、この事件について『羽鳥慎一モーニングショー』(テレビ朝日系)のコメンテーター、玉川徹氏は「痛ましい事件ですけど、拡大自殺ってこともありますからね」とコメントした。
これを聞いて、『拡大自殺』の著者である筆者としては少々違和感を抱いた。というのも、拡大自殺とは、人生に絶望して自殺願望を抱いた人が「1人で死ぬのは嫌だ」「自殺するのは怖い」といった理由から、他人を道連れに無理心中を図る行為を指すが、一連の報道を見る限り、今回死亡した巡査は誰も巻き添えにしておらず、個室で1人で自殺を図っていて、単独自殺の可能性が高いからである。
自殺願望は他人への攻撃衝動が反転したもの
もっとも、単独自殺であっても、根底に「自分はもうダメだ」いう絶望感が潜んでおり、やり場のない怒りや恨みを抱えている点では拡大自殺と共通する。そもそも、自殺願望は、たいてい他人への攻撃衝動が反転したものだ。他の誰かに怒りや恨みを抱いているが、それを直接伝えるのがはばかられるとか、たとえ伝えてもどうにもならないと無力感を抱いているとかいう場合、その矛先が反転して自分自身に向けられる。こうして自殺願望が芽生える過程は、いじめやパワハラを苦にして自殺した人が加害者の名前を遺書に書き残すことがときどきあるという事実からもご理解いただけるだろう。
逆に、自殺願望を抱いたとき、その矛先が再度反転して他人に向けられることも、容易に起こりうる。そうなると拡大自殺に走るわけで、昨今頻発している拡大自殺は、このメカニズムによると考えられる。
それでは、単独自殺に向かうのか、それとも拡大自殺に向かうのかの分岐点になるのは一体何か。それはひとえに復讐願望の強さである。復讐願望が強いほど、「自分だけ不幸なまま死ぬのは嫌だ」「1人で死んでたまるか」という気持ちが募り、それに比例して「少しでもやり返したい」という復讐願望が強くなる。その結果、多くの人々を巻き添えにして拡大自殺を図ろうとする。
今回死亡した巡査は、誰も巻き添えにしていないので、そこまで復讐願望が強いわけではなかったのだろう。だが、自殺を図る場所として首相官邸敷地内を選んでおり、しかも勤務中だったことから、何らかの告発や抗議をしたいという意図があった可能性も否定できない。少なくとも、何かを訴えたいという思いがあったことは十分考えられる。
もしかしたら、和歌山市で4月15日、岸田文雄首相の選挙演説会場に爆発物が投げ込まれた事件の影響で、首相官邸の警備が以前にもまして厳しくなり、緊張感がみなぎる職場環境でストレスを溜め込んでいたのかもしれない。
このような痛ましい事件を2度と起こさないためにも、上司や同僚にしっかり聞き取り調査を行い、人間関係、いじめやパワハラの有無、勤務状況などを明らかにするべきだろう。なお、うつ病の症状として「死にたい」「消えてなくなりたい」という希死念慮が出現することは少なくない。当然、自殺する前うつ病やうつ状態だったということも多いので、うつ病をはじめとする精神疾患を抱えていなかったかどうかも調べるべきである。
(文=片田珠美/精神科医)
参考文献
片田珠美『拡大自殺-大量殺人・自爆テロ・無理心中』 角川選書、2017年