震災後増殖した、“正義”を騙る浅はかな知識人や市民を疑え
――確かに、最初の「評論・エッセー」のパートだけでなく、それを読んだ上で「ルポ」「対談集」を読むと、『「フクシマ」論』の背景やそれをどう理解するか、あるいは3・11後の社会を考える上で、その思考の枠組みをいかに使っていくか、より立体的に見えてきます。では、これもあとがきに書かれていましたが、なぜ『フクシマの正義 「日本の変わらなさ」との闘い』というタイトルになったのか、簡単に教えてもらえますか?
開沼 メインタイトルの「フクシマの正義」の部分については、先ほどおっしゃっていただいた通り、「フクシマ」を語ったり、騙ったりしながら声高に唱えられる「正義」とされるものの不確かさや暴走っぷりを問うということが、本書をつらぬくひとつの筋になるのではないかということ。これは、原稿を並べ替えて整えて、すべてを通して読んだ上で考えた後付けです。
あと、「「日本の変わらなさ」との闘い」の部分について。これは、あとがきにも書いていない話をしましょう。これ、本が刷り上がってきてから気づいたことなんですがね。
例えば、ここ1カ月ほどの間に出た本のタイトルを挙げてみましょう。湯浅誠さんの本が、『ヒーローを待っていても世界は変わらない』(朝日新聞出版)というタイトルなんですね。與那覇潤さんと池田信夫さんの本は、『「日本史」の終わり 変わる世界、変われない日本人』(PHP研究所)。小熊英二さんの本は『社会を変えるには』(講談社)という。他にも細かくはあるんですが、とりあえずこれだけにしましょう。
これらのタイトルには、「日本社会」と、それが「変わる/変わらない」という2つの要素が共通して入っている。「変わらぬ日本社会」ブームみたいなものが、そこにはあるらしい。つまり、震災を経てすら変わらない日本への疑問、不満感、やりきれなさみたいなものが……大衆的なレベルでもそうだし、知識人のレベルでも、大きな無意識としてたまっているように見えるわけです。
で、当然「「日本の変わらなさ」との闘い」っていうタイトルも、同じものとして考えられるっぽい。これを決めるとき、編集者の方と侃々諤々、議論したんですが、偶然にも、最終的に「日本の変わらなさ」がタイトルに入った。
『「フクシマ」論』の表紙にも書いているんですが、私は「3.11を経ても、社会の根底にあるものは何も変わっていない」という旨を、震災直後から1年通して言い続けてきました。最初は「もうこんな大変なことがあったんだから、変わるに決まっているじゃないか、なに言ってんだこいつは」というリアクションばかりでした。1年たってみたら「どうやら、あんだけのことあったけど、全然変わっていないよね」という感覚が無意識的にであるにせよ醸成されているらしい。じゃあ、「それはなんで? どうすればいいの?」という問いにどう向き合うか。そのやり方はいろいろあるけれども、私は、「フクシマ」を語る・騙る「正義」とされているらしいものの在りどころを考えながら、そこに向き合いたい。それがタイトルに込められた意味です。
――「変わらぬ日本社会」ブームは確かにそうですね。タイトルを決める時というのは「言葉にできていないけど、みんな思っていることを言い当ててやろう」というところがありますしね。そして、『フクシマの正義』の中では、地方と中央の関係や支配のまなざしといった『「フクシマ」論』で描いたような、ある意味で地方を犠牲にして戦後日本が成長してきたというテーマを考察するコンセプトを呼び出しながら、新たな視点からの議論が深められていきます。
開沼 そうですね。今でこそ、「原発については前から関心があり、問題意識を高く持っていた」かのような顔をする人が多いかもしれませんが、事実として3.11以前に福島に原発があり、そこから東京へ電力が送られていることすら知らなかった人が大多数でした。そうした人々が少しでも、例えばいま出していただいたようなある種の存在論・認識論的なレベルでの理解のフレームワークに触れて、「社会の変わらなさ」を考え、議論するきっかけにしていただければと思います。
●脱原発は本当に加速しているのか?