震災後増殖した、“正義”を騙る浅はかな知識人や市民を疑え
『「フクシマ」論』について頂いた感想には「学術論文を読み慣れないから、わかりにくい」というものが最も多かったんですが、その一方でアマゾンレビューと「フクシマ論 感想」とか「フクシマ論 批判」とかで検索して上位に出てきたブログしか読んでいないことがバレバレの感想や、そもそもそれすら読んでいないであろう思い込みなど、大体同じようなパターンの話を至るところで聞かされました。肯定的であるにせよ、否定的であるにせよ、です。
――修士論文がベースにあり、400ページ超の大作。読むのに根気がいる本であるのは確かですよね。
開沼 ところが、研究者、人文書系などの編集者、ジャーナリズムに携わる方など、『「フクシマ」論』といろんな面で接点を持つジャンルの文章を読み慣れている方からの感想は、むしろ逆が多かったんです。「こんな一般書みたいに、シンプルでスラスラ読める論文はなかなかない」、(実際はほとんどしていないが)「読みやすいように、だいぶ加筆修正したんですか?」という反応が多かったりもしました。それは、単に私がうまくも下手でもない、オーソドックスな書き方をしているからなわけですが。
――その感想もわかります。
開沼 で、ここに現れるような、広い意味での専門家/非専門家の分断状況、それが生み出す非専門家の「私は・俺はわかった幻想」と専門家の「こんなことわかって当然だろ前提」こそが、まさに現在の混乱の背景にあるように私は思っています。非専門家は「わからない」のだけれども、専門家らしき人が「安全だ」と言っているのを信じて、安心する。あるいは逆に、「危険だ」と言っている人を信じて、バラバラになりそうな不安な気持ちをひとつの方向に向けて気分を落ち着ける。普段高度な専門家の間でされている話が、非専門家にはわからないのは当然のことです。にもかかわらず、非専門家が「わからない」と言わずに、「私は・俺はわかった」かのように語り合う状況がある。
本来「わからないけれども、私はこのようなところまでは考えている」と言明すべきところを、無理に「わからないけれども」を飛ばしてしまうことで、「私はこう考えている。それにそぐわぬ議論はすべて受け付けない」と強弁するような状況ができている。
その背景に無意識的にある言葉を補えば、「(わからないけど、あの人がこう考えているから)私はこう考えている(ことにしておく)。それにそぐわぬ議論はすべて受け付けない」というような危うい認識であるのにもかかわらず。現代が情報技術の発展によって、例えばアマゾンレビューを見て、ググって、あるいはツイッターでリツイートして、「知ったかぶり」をすることが容易な社会になっていることも一つ背景にあるでしょう。
――確かにそうした傾向は、さまざまな議論に見られるようになったと思います。
開沼 誤解を避けたいのは、「わからない」非専門家は何も語ってはいけない、考えてはいけない、という話では全くありません。言いたいのはむしろ逆。専門家と非専門家が語る「ブリッジ」が必要な状況を意識し、専門家も非専門家も双方で「ブリッジ」を構築する努力、そのためのコミュニケーションを常に志向し続ける必要があるということです。
現状は、そのような志向とは逆の方向に向かっている。そのような「わからないけども」を飛ばしてしまう中で「自分は正しい」という主張が飛び交う構造は、非専門家が自らの思考停止に開き直る方便を生み続けるし、専門家が「もうこんなの相手にしてらんないわ」とうんざりして、その議論にコミットすることをあきらめる結果を作り続ける。
――そのような膠着状態を崩すために「わかりやすくしたかった」ということですね。確かに『フクシマの正義』はわかりやすいと思います。
開沼 「わかりやすくしたかった」という意味は2つあって、ひとつは単純に普段「学術」的な文章や「論壇」的な文章を読み慣れていない方にも読んでいただけるような言葉や(エッセイ・ルポ・対談という)形式で書いた原稿を集めたということ、もうひとつは、こちらが本書の意図そのものですが、複雑でどのように扱っていいかわからないさまざまな問題を「なるほど、こう考えればいいのか」「こう見れば、混乱の理由がわかる」と理解するツールを提供したかったということです。