今から122年前の1899年に、「ジャメコンタント号」と名付けられたレーシングEV(電気自動車)が時速100キロメートルを超えた。鉄道も飛行機も(当時はまだ存在しなかった)、もちろん船も超えられなかったスピードを、EVは軽々と超えたのだ。
そのEVは、構造的には今日のヨーロッパの最新スポーツEVと変わらなかった。それから122年、変わったのは電池だけだった。すでにEVは122年前に出来上がっていたともいえる。
122年前の自動車
122年前の1899年というと、日本は明治32年である。ちなみに、この年には東京~大阪間の長距離電話が開通し、山陽鉄道(現山陽本線)の京都と防府間に食堂車が登場、博多港が開港、年賀郵便が始まった。明治維新から32年。まだまだ日本は文明開化の真っただなかであった。
そうしたなかで、人類が初めて経験した時速100キロメートルは、どの程度すごいことだったのだろうか。122年前の自動車の状況を見てみたい。
この年の13年前、つまり1886年に現在に通じるガソリン自動車が発明された。ゴットリープ・ダイムラーとカール・ベンツによるものだ。そのなかでベンツが発明した三輪車は、単気筒785ccのガソリンエンジンを積み、その最高出力はたった0.8馬力で、最高速度は時速16キロメートルほどであった。
当時、人気の一翼を担ったのは蒸気自動車であった。アメリカのボストン、ニューヨークといった都市部では2000台も存在した。時速40キロメートルほどで走り、最高出力は4馬力ほどであった。EVも発明されていた。1890年代にはロンドンでタクシーとして使われていた。こうした原動機の混成状態のなかに電気自動車も存在した。
やがてガソリンエンジン車、蒸気自動車、EVが入り乱れて1894年にパリ-ルーアン、翌95年にパリ-ボルドーの自動車レースが開催された。
自動車レースの始まりと駆動方式
パリ-ルーアンの走行距離は126キロメートル。平均時速18.7キロメートルで走ったド・ディオン・ブートン(ガソリン車)が世界初の自動車レースの勝者となった。少々マニアックな話になるが、現在のトラックを含めた自動車のFR(フロントエンジン、リアドライブ)と呼ばれる駆動系のレイアウト(配置)を発明したのは、このレースで3位に入ったパナールである。システム・パナールといわれるレイアウトは、エンジンを車体に対して前後方向縦に、変速機、プロペラシャフト、デフを同じく縦に配置して、後輪を駆動するいわゆるFRだ。
ただし、自動車の100年以上もの歴史のあいだ、駆動方式の玉座にいたシステム・パナールは、本格的なEVの登場と共に消えゆく運命にある。一方、上記のカール・ベンツとゴットリープ・ダイムラーの駆動系のレイアウトは、一部のスポーツカーやほとんどのレーシングカーに採用されている、エンジンを車体中央に置き、後輪を駆動するMR(ミッドシップ)であった。
自動車の駆動系のレイアウトは、MRに始まり、FRを経由してFF(フロント・エンジン、フロントドライブ)に至ったが、さてEVではどうだろうか。すでに4輪にモーターを配した4WDのEVは実用化されている。これまでの常識を超えた想像もつかないものになるだろう。
たとえばフェルディナンド・ポルシェは、1899年に4輪のホイールの中にモーターを収めたイン・ホイール・モーター式の4WD「ローナー・ポルシェ」を製作している。ちなみにイン・ホイール・エンジンは構造として成立しない。
ガソリンエンジン車はまだヨチヨチ歩きだった
1886年のガソリン自動車の発明からたった13年。ガソリンエンジンがまだ十数馬力しか出せず、最高速度も時速60キロメートルほどだった1899年に、1基25kWのモーターを2基、50kW(68馬力)、ミッドシップにレイアウトして時速105.88キロメートルで走ったEVがあった。ジャメコンタント号である。
当時、68馬力もの最高出力はとてつもないものであった。たとえば、1903年のパリ-ボルドー間のレースに出場し2位でゴールしたルイ・ルノーの手作りのエンジン車は30馬力であった。ただし、その後のエンジン車の進歩には目を見張るものがあった。1906年のベルギーのレースに出場したメルセデスは、すでに120馬力と高出力だった。また、米国の陸上スピード記録に出場したラダックは200馬力であった。EVが消えていったのは、こうしたスピード競技で勝てなくなったこともあった。
19年間で1500万台も売れたT型フォードの発表は、ジャメコンタント号が時速105キロをマークしてからたった9年後の1908年であった。4気筒、2896cc、20馬力ほどのガソリンエンジン車が、米国で世界に先駆けて大衆モータリゼーションを拓いたのであった。
最新のEVの構造と変わらなかったジャメコンタント号
さて、人類が初めて時速100キロメートルの壁を超えた乗り物であったジャメコンタント号は、現代の自動車から見れば恐ろしく非合理的で危険なカタチであった。というのも、当時の荷馬車、現代のトラックのフレーム(車台)の上にボディを乗せたものだったからだ。しかも、ボディは巨大な魚雷あるいは砲弾のような形をしていた。重い電池はフレームの上のボディに搭載されていたので、重心はきわめて高く、直進安定性はほぼゼロではなかったろうか。
一方、現代の乗用EVは、少々背が高くデザインされてはいるが、電池は床下に搭載されているので、エンジン車よりも重心が低く、スポーツカーのように安定して走ることができる。
では、ジャメコンタント号のどこが最新のEVの構造と変わらないかというと、駆動系のレイアウトである。しかもEVならではの構造で設計されていた。世界のEVマーケットを席巻しているテスラの2番目のモデルである「モデルS」は、2個のモーターで後輪を駆動する。しかもモーターは後輪の車軸のすぐ前に横に置かれ、それぞれが左右のタイヤを別々に駆動する。モーターの種類はいわゆる誘導型である。
ジャメコンタント号の2個のモーターもまた後輪の近くに左右別々に配置されている。チェーンで左右の後輪を別々に駆動する方式であった。ここは等速ジョンイトを使うテスラ・モデルSと異なるが、駆動方式そのものは現代のEVとまったく同じで、これはエンジンでは構造的に無理である。
ジャメコンタント号の左右2個のモーターの制御方法は不明だが、この時代に別々にモーターのトルクを変えることは不可能ではない。もし、左右別々にトルクを制御していたとすれば、現代の最新の技術である「トルクベクタリング」と呼ばれる操縦安定性を向上させる制御方法(の基本機能)と同じになる。
もし、左右のモーターを並列につないであったとすれば、片輪が浮き上がっても反対側のタイヤに駆動力が伝わり、車体は安定して走行できる。これはモーター駆動であれば極めて単純な方法である。しかし、エンジン車では複雑な機構でAI(人工知能)を縦横に使った差動装置を必要とする。
122年前のジャメコンタント号には、現代の最新の乗用車の重要な操縦安定性技術に勝るとも劣らない技術が使われていたということだ。言い換えれば、モーター駆動はエンジン駆動に比べてきわめてシンプルに(安く)高性能を手に入れられるということだ。
モーターはジャメコンタント号に戻るか
現代のEVのモーターの主流はBLDC(ブラシレスDC)である。誘導モーターよりも効率が良く、パワーも出るといわれるが、ウィークポイントはモーター内部の磁石にネオジムという希少金属を使う点だ。価格が高く、EVの普及につれ争奪戦が始まるといわれ、希少金属を使わない誘導モーターが見直されている。
今後は誘導モーターが主流になるとすれば、そして、ジャメコンタント号が誘導モーターだったとすれば、ここでもまた現代のEVと変わらない技術が122年前のEVに使われていたことになる。
ちなみに、誘導モーターは1882年にニコラ・テスラによって発明されている。現代のテスラの社名は、ニコラ・テスラに敬意を表して名付けられた。それもあってかモデルSのモーターは誘導型だ。EVとエンジン車の優劣を比べるときに、これまで述べたEVとエンジン車の違いも考慮する必要があるのではないだろうか。結論は122年前にすでに出ていたと思うのだが。
ただし、ジャメコンタント号の電池と現代の最新EVのそれとは、比べようもない。電池以外は122年前と原理的には大きく変わらない。進歩したのは電池だけだ(?)。
(文=舘内端/自動車評論家)