5月21日、安倍晋三首相が、新型コロナウイルス特措法に基づく緊急事態宣言を、京都、大阪、兵庫の関西3府県で解除すると表明した。残る北海道、東京、神奈川、千葉、埼玉の宣言解除については、25日に改めて判断されると見られる。
特定定額給付金手続きの煩雑さや「アベノマスク」、さらにこのコロナ禍の最中に提出された検察庁法改正案をめぐる問題など、政府に対する批判は強まる一方だ。しかし、わが国の新規感染者数は減少傾向にあり、日本よりはるかに厳しい都市封鎖をしたアメリカやイタリア、フランスなどよりも少ない被害に抑えられている。
この理由については、医療水準や検査体制、気候や国民の年齢構成などさまざまな要因が考えられる。なかでも興味深いのが、日本がそもそも「ウイルスが伝播しにくい社会」であった、とする説だ。
■「病原体が伝播しにくい条件」
国立感染症研究所名誉所員の井上栄氏は、著書『感染症――広がり方と防ぎ方 増補版』(井上栄著、中央公論新社刊)で、「日本人の生活文化には病原体が伝播しにくい条件が組み込まれている」と評価する。
感染症や病原体が運ばれていく経路は、今回の新型コロナウイルスのように、くしゃみやせきによる飛沫や手指での接触の他にも、蚊や水、性行為、空気(塵埃・飛沫核)などがあるが、日本社会や日本人の生活文化は、いずれの経路も遮断しやすいようにできている。
住宅には網戸があり、蚊を寄せつけない薬剤が手に入り、水道水は消毒され、コンドームの使用率も高い。そして、健康な人でもインフルエンザが流行る時期には予防のためにマスクをする。
それだけではない。食事をする時は箸を使い、手洗い・うがいは広く浸透している。キスやハグではなくお辞儀をして挨拶をする。とにもかくにも清潔で、ウイルスが人から人へと感染する余地は比較的少ない。
そしてもう一つ、井上氏が指摘しているのが、日本語の特性だ。
英語や中国語の場合p・t・k(中国語ではさらにq・ch・c)の破裂音のあとに母音が来ると、息が強く吐き出される「有気音」となる。一方の日本語は、p・t・kは(そもそも日本語にpの音は少ない)息を吐き出さない無気音として発音されるため、普段の会話では口からあまり飛沫が飛ばないのだという。
2003年に発生し、世界で8,000人あまりの感染者を出したSARSに日本人が一人も感染しなかったのは「幸運な偶然」とされるが、日本から感染源となった中国(香港を含む)や台湾への年間旅行者数は310万人と、27人の感染者が出たアメリカの230万人よりも多く、偶然だけでは説明がつかないだろう。
「SARS感染者ゼロ」はまぎれもない成功体験だ。井上氏は、数値的に実証する術はないにせよ、その成功の理由を考えておくのは重要だとし、人との接触が少なく、旅先のホテルにもスリッパを持ちこんで、よく手を洗う日本人の行動習慣が寄与した可能性に言及している。
■新型コロナ第二波に備えるために必要なこと
日本が感染症に強いとはいえ、ワクチンが開発されていない以上、今回の新型コロナウイルスには第二波、第三波の恐れがつきまとう。感染者が増える度に経済活動を自粛していては社会がもたない。日常生活を取り戻しながらもウイルスの感染拡大を防ぐ、「新たな行動様式」が求められている。
在宅勤務の普及や、オンライン診療の整備、集会やイベントを減らすことは社会全体で取り組むべき課題だろう。大切なことは、個人として取れる行動を考えること。マスク、手洗い、閉鎖空間で大声を出すなどの日常行動は控えるべきだ。また、多少の症状が出ても、自宅で静養していたほうが世のため人のためであると、井上氏は指摘する。大事なのは「やみくもに行動しないこと」だ。
新型コロナにつても長期戦が予想されるが、常に神経を尖らせていたり、自粛が続けば、肉体的にも精神的にも疲弊してしまう。ウイルスの性質を知り、感染拡大を抑える行動を論理的に考えれば、「やるべきこと」と「意味がないこと」も理解できる。
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日本は世界一清潔で、感染症が広がりにくい社会だとは言え、100%ウイルスの伝播を防ぐことはできない。だからこそ、病原体や感染症にはどのようなものがあり、どう対策をしていけばいいのかを知ることが大切になる。本書では、新型コロナウイルスに限らず、インフルエンザやノロウイルスなど感染症全般について、感染が伝播するしくみや私たちが日ごろからできる対策などがわかりやすく紹介されている。
「恐怖は、実際の病原体よりも広く、速く蔓延する」
井上氏は本書でこう述べているが、感染症と向き合ううえで重要な指摘だろう。
今回のコロナ禍でもマスクや日用品の買い占め行動が見られたが、感染症が流行すると、虚実入り乱れた大量の情報が世の中に溢れ返る。「感染症に強い社会」は「感染症に強い個人」から成り立つものだろう。今回のコロナ禍を糧にするために、本書は大きな学びを与えてくれるはずだ。
(新刊JP編集部)
※本記事は、「新刊JP」より提供されたものです。