今年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、平安時代末期から鎌倉時代初期が舞台となり、鎌倉幕府2代目執権・北条義時を中心に、幕府成立の過渡期が描かれている。
この時代に活躍したのが陰陽師だ。
呪術は「呪(のろ)いの法」と間違われやすいが、実際は「呪(まじな)いの法」。特に陰陽道は貴族の日常にはなくてはならない技能となっていたため、呪術=陰陽道を操る陰陽師は重宝されていたという。
その活躍の場は洛中に限らず、鎌倉からも呼ばれ、常駐スタッフを置いていたようだ。
では、歴史のターニングポイントに関与していた陰陽師とは一体どんな存在だったのだろうか。
『鎌倉殿と呪術 怨霊と怪異の幕府成立史』(島崎晋著、ワニブックス刊)では、平安時代から鎌倉時代初期の陰陽師たちの活躍を、歴史書『吾妻鏡』をもとにしながら探り、これまで見過ごされがちだった方面から動乱の時代を見直していく。
鎌倉で陰陽師たちはどんなことをしていたのか?
鎌倉幕府が編纂した『吾妻鏡』は、1180年4月9日から1266年7月20日までの出来事を編年体で記した歴史書だ。この『吾妻鏡』には、天文・陰陽道に関する記事が800以上、陰陽師の所見が100以上あり、およそ48種類の陰陽祭が見られるという。
本書によれば、鎌倉で行われた陰陽道の祭祀は大まかに4つのグループに分けられるという。
1.病気その他身体の障害や危険を取り除き祟りを防ぐもの
2.宿星の信仰を中心とし、自然の異変に対する祈祷的なもの
3.建築物の安全祈願のもの
4.祓を中心にしたもので神祇の作法に近い部分
天変地異や怪異が起きたら、陰陽師の占いによって原因を突き止め、適切な祈祷を行わせる。しかし、見立てを間違えることもあったという。
陰陽師がミスをした例としては、『五妻鏡』の1216年閏6月24日条に見られる。
幕府では、密教験者の忠快に「六字河臨法」という災いを払う修法を行わせることとし、陰陽師の安倍親職と安倍泰貞に縁起の良い日を占わせたところ、二人とも7月中から3つの候補日を選び出し、どの日でも問題なしとした。
しかし、実際に修法を行う忠快が、上・中旬には支障があり、29日に至っては不可と異を唱え、実朝は「これは陰陽道の誤りである。親職・泰貞の出仕を停止せよ」と命令。二人はしばらく自宅謹慎をさせられたそうだ。
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陰陽師とはどのような存在だったのか。彼らの日常を理解することが、鎌倉幕府の誕生とそれが1世紀半近く続いた秘密を解く第一歩となる。
「呪術」から明らかになる、もう一つの鎌倉時代の姿をぜひ本書から読み解いてほしい。(T・N/新刊JP編集部)
※本記事は、「新刊JP」より提供されたものです。