東日本大震災から、5年。
日本の自動車メーカーは、震災によってサプライチェーンが寸断され、生産停止に陥った。日本の“モノづくり神話”は、崩壊の寸前に追い込まれた。その危機を乗り越え、復活を遂げたわが国の自動車メーカーは、いまや世界の自動車市場で揺るぎない地位を占めている。
たとえば、2015年のルノー・日産アライアンスの世界販売台数は、852万8887台と過去最高を更新した。日産自動車の16年3月期の純利益は、10年ぶりとなる最高益を見込んでいる。
実は、日産は日本の自動車メーカーのなかで唯一、東日本大震災で震源地に近い福島県いわき市の「いわき工場」が壊滅的な被害を受けた。にもかかわらず、どの自動車メーカーよりも早く工場を復旧させた。
日産は、なぜ未曽有の危機「3・11」から復活できたのか。
日産社長兼CEO(最高経営責任者)のカルロス・ゴーンと、同COO(最高執行責任者/当時)の志賀俊之の力強いリーダーシップを抜きにして、日産の「3・11」からの復活はなかった。彼らは、想像を絶する難問にどのように向き合い、それを克服していったのか。そこには、人間臭い経営のドラマがあった。今、明かされる5年目の真実とは――。
震災発生
2011年3月11日14時46分、太平洋三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の巨大地震が発生した。そのとき、志賀は横浜市の日産グローバル本社21階の会議室にいた。1週間後に開かれる日本自動車工業会定例記者会見の準備に向けて、テレビ会議を行っていた。当時、彼は自工会会長だった。
「わッ、こりゃ、すごい揺れだ」
志賀はテレビ会議を中止し、震災発生から15分後に「全社災害対策本部」を設置し、自ら対策本部長として指揮に当たった。
一方、ゴーンはルノーの取締役会に出席するため、仏パリに滞在していた。志賀は日本の天変地異を伝えるべく、ゴーンに次のようなメールを送った。
「Big earthquake occurred. We are now investigating the safe of our employee(大地震が発生しました。現在従業員の安否確認中です)」
ゴーンからは、次のような内容のメールが返ってきた。同日15時30分から16時(日本時間)の間である。
「Take the best measure(最善の対策をしてほしい)」
パリの現地時間は、朝の8時ごろだった。
「まだ、現地パリの朝のニュースでは日本の被災の様子は流れていなかったと思います。とりあえず、3行ほどのメールを送り、その後も追加の情報を流しますということを伝えました」
志賀は、そのように証言する。連絡が取れるようになると、ゴーンは「すぐ横浜に帰る」と言い出した。