「でも、翌日の取締役会にはどうしても出席しなければならないわけです。ですから、『こちらは、大丈夫です』と伝えたのですが、本人は『すぐに帰りたい』と言い続けていましたね」と、志賀は言う。
震災の翌12日、東京電力福島第一原子力発電所1号機が水素爆発、さらに2日後の14日、同3号機も水素爆発した。福島原発から直線距離でおよそ50kmのいわき工場は、いわき市が放射能汚染を考慮して市内の一部に独自に発令した「屋内退避指示」や屋内退避の推奨により、工場の復旧作業にまったく手がつけられなくなった。
いわき工場は、1994年に稼動した、年間56万基のエンジンを生産する日産の主要なエンジン製造拠点だ。生産しているのは、V型6気筒(VQ)エンジンで、海外向けが約7割を占める。従業員数は590人(当時)だ。いわき工場の工場長(当時)の小沢伸宏は、次のように証言する。
「実は、私はいわき工場を閉じたほうがいいのではないか、この際、VQエンジンの生産は、海外に持っていったほうがいいんじゃないかと思いつめました」
巨大地震と原発事故のダブルパンチで、いわき工場は存亡の危機に立たされた。北米を中心に販売する高級ブランド「インフィニティ」に搭載する高級エンジンの生産を担ういわき工場の操業が止まれば、北米販売に影響が出かねない。
「そうなれば、北米市場に損失を与える。その責任をとらなきゃいけないと思いました。天災とはいえ、即座に思ったのは、これはクビになるということでした」(同)
実際、彼はクビを覚悟したのだ。
ゴーンが示した、突破する自信
日産は3月17日、いわき工場の存廃をめぐって、パリと横浜の日産本社、そしていわき工場を結び、テレビ電話会議を開いた。ゴーンはパリから電話会議に参加し、志賀と生産部門の責任者で副社長(当時)の今津英敏が本社から参加した。小沢は、携帯電話で参加した。
小沢は、いわき工場の復旧がきわめて困難であると現状報告した。すると、ゴーンは思わぬ発言をした。
「本社は、いわき工場をフルサポートします。ですから、安心してください。それから、必要なアクションは小沢がすること。本社はそれをサポートする体制をとりなさい」
ゴーンは、小沢をクビにするどころか、あらゆる手段を講じて復旧に全力を挙げると約束した。まさしく、迅速な決断である。その決断は、高度な危機対応力の賜物といっていい。これにより、工場閉鎖という最悪の事態は回避された。