夏たけなわ、水辺が恋しい。だが、水の事故も後を絶たないのは悲しい限りだ。警察庁の統計資料(6月15日)によれば、2016年に発生した子ども(中学生以下)の水難事故は、発生件数1505件、水難者数1742人、死者797人、行方不明者19人、負傷者313人。
発生件数、死者・行方不明者数とも、過去5年間で最多。7月と8月は年間事故件数の約40%、死者・行方不明者数の約37%を占めている。
そんななか、水難事故から奇跡的に生還できた子どもがいる。プールで溺水事故に遭遇し、重度の脳障害に至った女児に高気圧酸素治療(HBOT)を試みたところ、萎縮していた脳組織が回復したとする報告が6月30日付「Medical Gas Research」に掲載された。
萎縮していた脳の機能が完全に回復
HBOT(Hyperbaric oxygen therapy)は、高気圧が保たれた治療装置の中で高濃度の酸素を吸入させ、脳の機能を回復・蘇生させる非侵襲性かつ痛みを伴わない治療法だ。
この症例を報告した米ルイジアナ州立大学医学部大学医療センターのPaul Harch氏によれば、HBOTによって回復した女児は、アーカンソー州のエデン・カールソンちゃん。エデンちゃんは2歳の誕生日前日、自宅のプールでうつぶせに浮いている状態で発見された。
事故直後、エデンちゃんの血流を取り戻すために100分の心肺蘇生(CPR)を行ったものの、MRI検査では灰白質や白質などの重要な脳の領域が萎縮し始めていた。その約2カ月後、身体を動かす力が失われ、会話、歩行、指示への反応などの能力も低下した。
この時点でエデンちゃんを紹介されたHarch氏らは、事故から55日目に、自宅で通常の気圧下での高濃度酸素療法を1日2回実施。その後、ニューオーリンズにあるHarch氏らの施設に搬送し、78日目からHBOTを開始。1回45分のHBOTを週5日のペースで計40回実施した。
その結果、HBOTを1回実施するごとに飛躍的な改善がみられ、エデンちゃんの母親によると、10回目の治療時にはほぼ正常に回復。最終的にエデンちゃんは歩けるようになり、言語能力は事故前よりも向上。MRI検査でも、萎縮していた脳の機能が完全に回復していた。
Harch氏によると、HBOTは効果の機序が十分解明されていないことから有効性は未確定だったが、急性脳損傷の成人を対象に行った研究では、1回のHBOTでも組織回復の促進に必要な複数の遺伝子の活性に変化が認められている。
エデンちゃんの回復例はひとつの症例にすぎないので、同じ状況にある患者へのHBOTの有効性はまだ疑問がある。
しかし、Harch氏は「エデンちゃんのような幼児に限らず、さまざまな年齢の患者でHBOTによる効果が期待できる。重要なのは、患者の年齢ではなく『いつ介入するか』だ。HBOTを実施するなら、早ければ早いほど良い」と強調している。
なお、成人を対象とした4件の臨床試験によると、損傷から1週間以内にHBOTを開始すれば、急性脳損傷患者の死亡率が50~60%低減しているという。
高濃度の溶解型酸素が全身に供給され、様々な疾患や病態を改善!
エデンちゃんが受けたHBOTは、どのような治療法なのか。
HBOTは、圧力の高い部屋(高気圧治療装置)で100%の高濃度の酸素を吸入し、全身に酸素を供給する治療だ。日本高気圧環境・潜水医学会や厚生労働省の基準によると、2絶対気圧(大気圧の2倍、水深10m相当の圧力)で1時間以上の100%の高濃度の酸素を呼吸させると定めている。
血液中(動脈血中)の赤血球内にあるヘモグロビンの95%以上が酸素と結びついている(結合型酸素)。高気圧環境下で高濃度の酸素を吸入すると、圧力に応じて血清(血液の液体成分)に酸素が溶け込み、この高濃度の溶解型酸素が全身に供給されるので、生理的、化学的、物理的作用によってさまざまな治療効果が生まれ、病態の改善につながる。
HBOTは、どのような治療効果があるのだろうか。
第1に、溶解型酸素の濃度の上昇によって、糖尿病、バージャー病(閉塞性血栓血管炎)、一酸化炭素中毒などの末梢血行障害や抹消組織の低酸素状態を改善する。
第2に、溶解型酸素の濃度の上昇によって創傷治癒(きずの治り)を促進する。糖尿病、バージャー病(閉塞性血栓血管炎)などの末梢循環不全による皮膚潰瘍を始め、子宮頸がん、子宮体がん、前立腺がんの放射線治療後に生じる正常粘膜のただれ、直腸・膀胱からの出血、放射線性顎骨壊死などの晩期放射線障害を緩和する。そのほか、捻挫・打撲による腫れや痛みを軽減し、靭帯損傷や肉離れの回復も促進する。
第3に、白血球による滅菌作用を増強するため、ガス壊疽、壊死性筋膜炎、骨髄炎などの細菌感染症に対しても有効だ。
第4に、悪性腫瘍の放射線治療の有効性を高める効果もある。
第5に、加圧によって腸閉塞などによる腸内ガスの容積を縮小するため、循環が悪化した血管を回復させ、腸の働きを改善する。
第6に、スキューバダイビングでの深いダイビング、長時間の繰り返しダイビング、急浮上や安全停止の省略などによって、組織内や血管内に窒素ガスの気泡が生じる減圧症の体内窒素ガスの排泄を促す効果がある。
つまり、HBOTは高気圧環境下での高濃度の酸素吸入による酸素分圧の増加に伴って溶解型酸素を増加させるので、酸素の運搬が低下する末梢循環不全・損傷組織の創傷不全・感染症・減圧症などへの有効性が高い。
ただし、重大なリスクがある。
火災だ。高気圧環境下では、僅かな発火元が重大な火災を招く恐れがあるため、各医療機関は、マッチ、ライター、タバコ、カイロ(使い捨て含む)、時計、ラジオ、携帯電話、スマートフォン、消毒用アルコール、ベンジン、油脂類などの持ち込みを厳禁している。
さらに、綿または木綿100%の下着の着用を義務付け、治療前に患者のボディチェックを行うなど、入念な安全対策を講じている。
さて、このような治療法が登場したとはいえ、猛暑の折、水難事故の犠牲者が出ないことをひたすら祈るばかりだ。
なお、HBOTの詳細を知りたい人は、下記のサイトを参照してほしい。
日本高気圧環境・潜水医学会
http://www.jshm.net/
日本臨床高気圧酸素・潜水医学会
http://square.umin.ac.jp/jachod/
松原徳洲会病院
http://www.matubara.tokushukai.or.jp/department/technology/hipressure.html
*参考文献/『高気圧酸素治療の基礎と臨床』榊原欣作 医学書院など
(文=ヘルスプレス編集部)