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西口茂男総裁死去で「住吉会が分裂」との噂も…組織の歴史と現状を見れば、それは杞憂にすぎない

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写真はイメージ(© Fotolia 2017)

 ヤクザ社会の重鎮である住吉会総裁の西口茂男氏が9月12日未明、多臓器不全で都内の病院で亡くなった。現在も住吉会組員は喪に服している。

 西口氏が亡くなられてすぐに動いたのは、六代目山口組だ。報道されている通り、当代である司忍・六代目山口組組長が電光石火のごとく上京し、弔問に訪れた。これは当然、分裂している神戸山口組に対してのパフォーマンスともいえるだろう。

 神戸山口組組長の井上邦雄氏は、住吉会幸平一家総長の加藤英幸氏および神戸山口組の中核団体・山健組傘下健國会総裁の山本一廣氏との盃があるために、住吉会とは関係性が近いといわれてきた。そのために、いろいろな噂も囁かれてきた。神戸山口組の発足式の時にも、幸平一家総長が顔を出している。だがこれだけで、幸平一家が神戸山口組と近いと断じるのは早計だ。なぜなら、幸平一家総長は六代目山口組若頭補佐である二代目竹中組組長の安東美樹氏とも近い関係にあるからだ。

 西口氏の葬儀は近親者のみで行われ、27日には埼玉県日高市にある住吉会関連施設で、住吉会による見送る会が行われた。ここには他組織の参列は一切なかった。これには意味があるのか。

 住吉会の幹部組員は筆者の電話に対して、「この会館では、他の組織を呼ぶような義理は行わない。そのようなことをして締め出しをくらった組織もある。要するに、警察の締めつけがあるからだ」と語った。

 この「締め出しをくらった組織」とは、幹部会や義理事などの開催場所として、松葉会館(茨城県・守谷市)を使用していたことで住民からの反対運動が加熱し、結果、事実上、行政から同施設を買い取られた松葉会のことだろう。実際に、葬儀が行われた住吉会の施設では、定例会などは行われてこなかった。

 では、このような大物の弔問に他組織は訪れていないかというと、そんなことはなく、住吉会は港区にある住吉会総本部に祭壇を設けて他組織の弔問を受けている。現在わかっているだけでは、以下のとおりだ。

9月25日
稲川会、松葉会、九州四社会 、双愛会、東声会、関東関根組
28日
丁字家、極東会
29日
福博会、旭琉会 
30日
東組

 このように、日本全国から多数の組織が弔問に訪れており、この日程以外でも、その他の組織も当然、弔問に訪れているはずである。

派閥間の衝突と均衡が住吉の歴史

 では、本題に移ろう。

 無責任な一部メディアでは、西口氏の逝去を受け、「住吉会分裂か」などと大層な見出しを付けている記事も見られる。有力組織である幸平一家が割って出るのではないかと、その動向に着目する向きも少なくない。だが、住吉会の分裂は現段階では考えられない。もちろん、六代目山口組の分裂があったように、一寸先は闇なのがこの世界で、断言はできないが、少なくとも今の段階ではそのような兆候はまったく見られない。

 その理由として、組織が現在、喪に服していることもあるだろう。だが、それ以上に、住吉会会長である関功氏との盃を持つ傘下組織の関係を知れば、分裂など起こらないことは想像がつくのだ。

 ご存じの通り、住吉会は今の名称に辿り着く前は港会、住吉会(旧)、住吉連合、住吉連合会と名前を変えてきている。この間、住吉会には、政財界などのどこの組織でもあるように、その内部にはいくつかの大きな派閥が存在していた。そもそも、元の名前にあったように、複数の組織の「連合体」であり、各組の体を掛けた派閥関係の中で、時に衝突を生みつつ、均衡を保ってきたのだ。

 昭和31年、浅草の妙清寺で行われた住吉一家の葬儀では、高円寺を根城とする向後初代の向後平氏たちと銀座の大日本興行の高橋輝男氏たちが撃ち合いになり、両親分が惜しくも亡くなっている。この頃から、銀座系と高円寺系との対立が特に高まったとされている。

 だが、その後、対立が表面化されなかったのは、偉大なる親分として今も語り継がれている堀政夫氏の力があったからだ。

 堀氏は、昭和42年に住吉会(旧)の中核団体だった住吉一家五代目を継承後、住吉連合代表となり、その後に名称を住吉連合会と改めた。昭和63年、会長職を退き総裁となり、組員は末端に至るまで堀総裁を敬服するようになった。

堀正夫氏は稀代の名親分と語り継げられていることに

 しかし、この時点では住吉会の派閥の争いは完結していなかった。

 振り返れば、堀氏は総裁に就くと、会長職に日野一家四代目の川口喨史氏を指名して、もともと新宿を地盤としていた塚原崇司氏が率いた塚原派の面目は立った。川口氏は住吉一家塚原一門の人間だったが、跡目を約束されて日野一家に養子に入ったのだ。また、そのほかの要職に銀座系の小林楠扶氏、高円寺系では浜本政吉氏率いた浜本兄弟会の西口茂男氏を置いて、組織のバランスを図った。各派閥のメンツを重んじた絶妙な人事を実現し、それらの手腕も含めて堀氏は稀代の名親分と語り継がれているのだ。

 その後は西口氏が住吉連合会会長に就任後、住吉一家六代目を継承して名称を住吉会に改め、各一家の親分や、それに準ずる人物と盃を交わし、各組織の連合体という「横のつながり」から西口氏を親、二次団体のトップを子とする「縦の関係」になった。

 この盃関係には大変深い意味もあった。この時点で住吉会は、住吉一家、幸平一家、土支田一家と三つの二次団体が中心となって支えることになったのだ。多くの組織が住吉一家の傘下に入り3次団体となったが、幸平一家、土支田一家はそれをしなかった。当時を知る古い組織関係者は、このように語る。

「彼らがそもそも所属していた関東友愛会という組織が、後から住吉に入ったからでしょう」

 幸平一家、土支田一家、滝野川一家、二本木一家(後に幸平一家に合流)は、昭和30年代前半には関東友愛会という連合体を組んでいた。さかのぼれば、彼らは江戸時代から続く博徒組織としての連帯感を持ち続けており、住吉会に加入したのも住吉連合と呼ばれていた昭和40年代だ。他の傘下組織とは一線を画した存在感を持ち続けてきた。

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