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家康はなぜ「徳川」を名乗ったか…ニューイヤー駅伝から考える、群馬に徳川町があるワケ

文=菊地浩之
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徳川家康の像。アーサー・ミーら執筆の『Harmsworth History of the World』第1巻より。(Getty Imagesより)

三河を統一して徳川に改姓

 徳川家康(1542~1616年)は、三河岡崎(愛知県岡崎市)の城主・松平広忠の長男として生まれた。つまり旧姓は松平である。岡崎市の北北東に松平(愛知県豊田市松平町)という山村がある。家康の先祖はそこから身を起こして、岩津(岡崎市岩津町)→安城(愛知県安城市)→岡崎と移り住んだわけだ。

 松平家は西の織田氏、東の今川氏という強者に挟まれて隠忍自重を余儀なくされ、家康は幼少期に織田家、今川家で人質生活を送ったが、1560年の桶狭間の合戦で今川義元が討ち死にすると、三河に帰還して独立。1564年に三河吉田城(愛知県豊橋市)に駐留していた今川家重臣を追い払い、ついに三河を統一した。

 そして、1566年に家康は松平から徳川に改姓した。なぜ改姓したのか?

重要だったのは、徳川改姓より三河守任官

 実は改姓と同時に、家康は朝廷から従五位下(じゅごいげ)三河守(みかわのかみ)に任ぜられている。三河守とは、律令時代の三河の国司(こくし)で、現在でいえば、愛知県(東部)の県知事といったところか。

 戦国時代になると、官職を僭称(せんしょう/勝手に名乗ること)する風潮が広がった。たとえば、織田信長は上総介(かずさのすけ)、つまり千葉県北部の副知事を名乗っていたのだが、信長には上総国との縁はなく、第一そんな遠くに行ったこともない。

 ところが、家康は朝廷から正式に叙任された、本当の――といったらおかしいのだが――三河守となり、名実ともに三河の領主になったと世間に宣言したわけだ。つまり、家康の徳川改姓は、三河守任官とセットで行われた。そして、家康にとっては三河守任官のほうが重要で、徳川改姓はそれを実現するための方便だったらしい。

『新編安城市史1』(安城市史編集委員会編)によれば、「朝廷によって認められる任官作業は先例主義であり、なんらかの役職への任官を望む場合、一般的にはかつて自らの先祖に当たる人物がその役職に任官されている必要があった。しかし松平を家名とする者に三河守任官の先例がなかったため、松平のままでは任官が不可能であった。そこで三河守任官を目指し、かつて三河守に任ぜられたことがある世良田頼氏(せらだ・よりうじ)を先祖とした系図を結びつけるべく、徳川への改姓も同時に願い出たと考えられる」という。

 これにはちょっと解説が必要だろう。

 家康は三河守になりたかったのだが、朝廷は先例主義なので、先祖に三河守になった人物がいたほうが話が容易に進んだ。松平家はもともと三河の山の中に住んでいた豪族なので、そんな高貴な人物はいない。そこで、縁もゆかりもない世良田頼氏という人物が三河守だったので、その子孫を僭称したというわけだ。

 では、なぜ世良田ではなく、徳川に改姓したのか。実は、頼氏の父が得川義季(とくがわ・よしすえ)というのだ(義季が得川を名乗ったことはなく、得川を名乗ったのは頼氏の兄・頼有(よりあり)だという説もあるのだが)。

 家康はこう考えたに違いない。世良田よりも得川のほうがカッコイイ。ついでに「得」の字を「徳」にして、徳川にしよう――というデタラメのオンパレードである。

なぜ、世良田・徳川だったのか

 しかし、過去に三河守だった人物ならほかにもたくさんいる。なぜ、家康は世良田頼氏の子孫を名乗ったのだろうか。実は、家康の祖父がすでに世良田を名乗っていたのだ。

 家康の祖父・世良田(松平)清康は、西三河をほぼ統一した松平家「中興の祖」ともいえる人物で、隣国の今川家が名門・足利家の出身なので、その向こうを張って新田氏の子孫を僭称したのだという。

 足利家の祖・義康と、新田家の祖・義重は兄弟で、兄の新田義重が上野国(こうずけのくに/およそ現在の群馬県)、弟の足利義康が下野国(しもつけのくに/およそ現在の栃木県)を本拠とした。先述した得川義季は新田義重の四男で、上野国新田郡得河郷(とくがわごう。群馬県太田市徳川町)を本拠としていたから、得川を名乗ったのだ。世良田村もその近辺にあり、義季の子・頼氏が世良田に分家したという感じだ。

 ちなみに、元旦の“ニューイヤー駅伝”こと「全日本実業団対抗駅伝競走大会」は群馬県下を走るのだが、そのコースは徳川町の近辺が含まれる。ホントはまったく関係ないのだけれど、三葉葵(みつばあおい)を付けた太鼓を鳴らして郷土を紹介する風景が見られるはずである。

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「葵の御紋」のさまざまなパターン【沼田頼輔『日本紋章学』(明治書院、1926年/大正15年)より】

何種類もある葵の御紋

 徳川家といえば三葉葵の御紋が有名だが、実は歴代将軍でも使う家紋が微妙に違っていて、何パターンもあった。

 スペードの形の葉に放射状に広がっている線を「芯」(しん)というのだが、家康の時代には多くの細い芯が広がり、それが時代をくだるごとに太いものに変わり、4代・家綱の時代には芯が横に広がるようになる。そして9代・家重の頃にデフォルメされた形に変わった。

 歴代将軍でも形が違うくらいなので、御三家もそれぞれ様式を変えていた。明治維新後、「オレは徳川家の者だ」と偽って呉服店で葵の御紋を付けた衣装を作ろうとした輩がいたが、店員に「芯は何本ですか?」と尋ねられて即答できず、ウソがばれたという逸話が残っている。

当主しか名乗れなかった「徳川姓」

 江戸時代、「徳川」姓は非常に稀少で尊ばれ、徳川家に生まれても当主とその跡取りしか名乗れなかった。

 たとえば、紀伊藩主の四男に生まれた8代将軍・徳川吉宗は、若い頃は松平主税頭頼方(まつだいら・ちからのかみ・よりかた)と名乗っていた。跡取り息子ではなかったので、「徳川」と名乗れなかったのだ。同様に5代将軍・徳川綱吉もはじめは松平姓を名乗っていた。

 家族みんなが徳川を名乗るようになったのは、明治維新以後のことである。もっともこうした慣習は、名家では一般的だったらしい。三井財閥では、次男以下は新井や泉などに改姓していたが、大正時代になると改姓が難しくなって、やめたらしい(換言するなら、大正の頃まではやっていたらしい)。

(文=菊地浩之)

菊地浩之

菊地浩之

1963年、北海道札幌市に生まれる。小学6年生の時に「系図マニア」となり、勉強そっちのけで系図に没頭。1982年に國學院大學経済学部に進学、歴史系サークルに入り浸る。1986年に同大同学部を卒業、ソフトウェア会社に入社。2005年、『企業集団の形成と解体』で國學院大學から経済学博士号を授与される。著者に、『日本の15大財閥 現代企業のルーツをひもとく』(平凡社新書、2009年)、『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』(角川選書、2017年)、『織田家臣団の系図』(角川新書、2019年)、『日本のエリート家系 100家の系図を繋げてみました』(パブリック・ブレイン、2021年)など多数。

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