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古文・漢文“不要論”めぐり議論沸騰…問われる、中学・高校で必修にする意味と必要性

文=二階堂銀河/A4studio
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「Getty images」より

 中学・高校で学ぶ「古文漢文」が必修科目として不要だとする意見と、それに対する反対意見がネット上で盛んに議論されている。発端となったのは2月19日に投稿された、ひろゆき氏の以下のツイートだ。

「古文・漢文は、センター試験以降、全く使わない人が多数なので、『お金の貯め方』『生活保護、失業保険等の社会保障の取り方』『宗教』『PCスキル』の教育と入れ替えたほうが良い派です。古文漢文はやりたい人が学問としてやればいいだけで必須にする必要ないかと」

 これに対して賛否両論が巻き起こると、2月26日にはインターネットテレビ「ABEMA」の報道番組『ABEMA Prime』にて、事の発端となったひろゆき氏や有名予備校講師の吉野敬介氏を招いて議論を繰り広げた。IT系企業の役員は言う。

「アメリカのGAFA(グーグル、アマゾン、フェイスブック、アップル)、中国のBATH(バイドゥ、アリババ、テンセント、ファーウェイ)などが台頭するなか、世界において日本企業のステータスは低下している。その大きな要因は、日本人の英語力とITスキルの低さです。そもそも日本人は、国際的な公用語である英語を母国語としていないという時点で、ビジネスにおいては欧米人に対して大きなハンディキャップがあり、さらにインドや韓国をはじめアジアの国と比較しても英語力の低さは指摘されています。また、以前からインドや韓国など、小中学校の段階からIT教育に力が入れている国も多いなか、その面でも日本は遅れている。

 こうした状況のなかで、将来なんの役にも立たない古文や漢文を中学・高校で必修科目にして、学生の時間を奪ってしまうことに、果たしてどれだけの意味があるのか。個人的には疑問です。ほかに時間と労力を割くべきことは、山のようにあるような気がします」

 では、実際に古文・漢文という教科を学校で学習することには、どういった役割があり、力を養うのか。『独学大全――絶対に「学ぶこと」をあきらめたくない人のための55の技法』(ダイヤモンド社)の著者で博覧強記の読書家・読書猿氏に伺った。

古文・漢文を学ぶことで得られる、ある“体験”とは

「前提として、どんな分野でも学問を本当に自分のものにしようと思ったら、各自でやりこまないと、身につくとはいえません。学校教育が提供しているのはそのためのきっかけであり“体験”です。古典・漢文の場合でいうと『テキストを普通に読んでも理解できない』という体験ですね。これが身に染みているかいないかで、その後の人生が劇的に変わると思っています」(読書猿氏)

 どういった点で人生が劇的に変わるというのだろうか。

「今の世の中には、わかりやすいものが幅を利かせていますよね。そのせいで、みなさんは、文章というものは基本的に読んだら理解できるものなんだと無自覚レベルで信じています。でもその「信仰」は、理解できない文章を排除することで成り立ってるんです。

 しかし、そうやってわからないものを排除していくと、その人が出合う文献や知識はどんどん限られて貧しくなり、当然騙されやすくもなります。読めないものに出会う体験はそれを防ぐ、という意味で人生が変わってくるということなんです」(読書猿氏)

 自分のなかに取り入れる知識や見聞を増やすためにも“わからない”を体験し、学習のための学習をしておくことが大切だということか。

「言葉の意味がわからないという点では、英語を学習することも同じ役割を果たすんですが、古文漢文は現代の日本語の底に埋まっている言葉なので、ある種“勘違い”で読解できるんです。例えば『おかし』という言葉を『面白おかしい』という意味なのかな?と勘違いができる。未知の言語だとただ分からないだけなんですが、古文・漢文は推測した上で間違えることができるんです。

 実際にどこまで古文・漢文のテキストを理解できるようになるかはともかく、テキストを誤解する経験、そして語彙や文法といった知識を使って誤解を抜け出す経験がとても重要だと思います」(読書猿氏)

 英語は現代にも生きている言語で正解があるものだから、古文・漢文といった過去の文献を読み解こうとすることは、確かに英語を読み解く行為とは質が異なるだろう。

古文・漢文の代わりに学ぶべき教科はある?

 では、古文・漢文の代わりに実用的な知識、例えば「生活保護、失業保険等の社会保障の取り方」「ITスキル」などを教える教科にしたほうがいいという意見もあるが、それについてはいかがだろうか。

「知っておいた方がいい実用的な知識というのはたくさんあるんです。ただ知識というのは更新するもので、時間がたつと陳腐化するんですよ。

 それに学校を卒業した後も学ぶべきことはたくさんありますよね。そのときに学校で学んでいないことをいかに学んでいけるかということが大切で、『魚を与えるのではなく、釣り方を教える』ということが学校の役目だといえます。

 本来、学校というのは生徒を独力で学べる人間にするところなんです。たかだか10代のうちに学んだことで、一生やっていけるなんて、そんな虫の良い話はない。それよりも本を読めるようになっておけば、あとは独学でさまざまなことを学んでいくことができる。この『本を読める』の中には、自分の誤読に気付き、自力で修正する能力も含んでいます。」(読書猿氏)

 学校は生徒たちに“学び方”を学ばせるために機能すべきだという意見は確かにもっともかもしれない。さて、その“学び方”を学ぶツールとして古文・漢文をどういうふうにして学べばいいといえるだろうか。

「国語が得意という人のなかには『勘で解ける』という人もいますが、それだと自分の勘が通用しない文章は読めません。自分が読めない文章に、足りない知識を補給し、一つ一つ推論を重ねて理解できるようになることが大切です。文法というルールを学んで、語彙を覚えて、それらの使い方をマスターして、ロジックを使って考え、読解していく。こうした読み方が身につけば、知識の更新に耐える、一生使える力になります。

 これまでの話の通り、私はこの議題に関してはかなり保守的な意見です。保守の第一原理は『わからないなら変えるな』だと思います。コンピュータ科学でいうところの『動いているプログラムを変更するな』というところでしょうか。

“書き言葉を読むことなんて誰でもできる”という勘違いは、“ちゃんとテキストを読めることがどれほどの力を持つものか”を想像できなくさせていると思います。その意味で、人文知を軽視することの背景にあるものです。繰り返しますが、そうした勘違いが生まれるのは、自分の読めるものしか読んだことがないからです。

 その勘違いを壊すことができたら、人間一人ひとりの知的視野に入る文献の範囲は、人類の知的遺産全体に広がります。このことは決して軽んじられるべきものでないと、私は思います」(読書猿氏)

古文漢文不要論」に対してはさまざまな立場から意見があるが、なかにはこうした意見もあるということは覚えておきたい。

(文=二階堂銀河/A4studio)

A4studio

A4studio

エーヨンスタジオ/WEB媒体(ニュースサイト)、雑誌媒体(週刊誌)を中心に、時事系、サブカル系、ビジネス系などのトピックの企画・編集・執筆を行う編集プロダクション。
株式会社A4studio

Twitter:@a4studio_tokyo

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