新聞・テレビなどの大手メディアでは、東京五輪の注目競技や選手に関する報道が増加し、お祭りムードの演出が始まっている。一方で、バッハ会長の広島行きや日本と中国の区別もつかないのかと思わせる「チャイニーズ・ピープル」発言など、その言動に対する批判が収まらない。
バッハ会長の挙動に注目が集まる背景として、1年間の延期を決定する際に目立ったIOC(国際オリンピック委員会)の強権ぶりがある。コロナ対策に疲弊する日本の事情を考慮しない“開催ありき”の姿勢に加え、仮に中止となれば日本政府が巨額の賠償金を負担する可能性が取りざたされた。日本国民にとって、IOCはもはや“悪の組織”に映っているといっても過言ではない。
一国の政府すら従わせる巨大な力を持つように見えるIOCという組織は、なぜそのような権力を持つに至ったのか。IOCの歴史と組織形態に精通するジャーナリストで、『オリンピック・マネー 誰も知らない東京五輪の裏側』(文春新書)の著者である後藤逸郎氏に聞いた。
IOCは「単なるNPO兼NGO」
――著書『オリンピック・マネー』に、「IOCは聖なる存在でなく、スポーツ大会の興行主であり、自らが構築した財務システムに振り回されている」とあります。しかし日本人からすると、一介の興行主とは到底思えないほどの巨大な存在に見えています。IOCはなぜ、これほどまでに強力な組織となりえたのでしょうか。
後藤逸郎氏(以下、後藤) 日本人の間では、IOCがあたかも国際連合のような超国家的な機関であり、菅首相はその政治的な圧力の言いなりになっているという構図があると思います。実はこれは明らかな誤解で、要は契約を守るか反故にするかという単純な話です。
IOCは五輪という巨大かつ国際的なイベントを行う組織ではありますが、基本はスイス民法のもとで運営されているNPO(非営利団体)兼NGO(非政府組織)にすぎません。もともとはスポーツの世界大会開催を目的に欧州の貴族が寄り合って作った“サークル”のような組織が出発点です。
開催を重ねるにつれ五輪は規模を拡大していきますが、とはいえIOCはただのNPO兼NGOにすぎないので、国家と対峙、折衝する力を持っていませんでした。その顕著な例が、ソ連が開催国となった1980年のモスクワ五輪です。
前年に起きたソ連のアフガニスタン侵攻を受け、米国をはじめとするソ連と対立していた70近くの国・地域が、モスクワ五輪への参加を見送りました。日本も米国に同調しています。国家間の政治的対立を前に、“平和の祭典”という五輪の看板は無力でした。
ボイコットという政治的な困難を経験したことは、IOC自身が力を身につけ、五輪の開催を確保するという道を拓きました。モスクワ五輪はIOCに決して消えないトラウマを植え付け、国家や政治からの自立を志向させるきっかけとなったのです。
国家と渡り合うための「財布」と「契約」
――モスクワ五輪以降、IOCは具体的にはどうやって自立を達成していったのでしょうか。
後藤 続く1984年の米国・ロサンゼルス五輪が大きな転機となります。五輪運営経費の肥大化に対して、ロサンゼルス市とカリフォルニア州はロス五輪に公金を投入しないことを決定しました。ロス五輪の組織委員会は、スポンサー企業の獲得やテレビ放送権料の高額化といった“商業化”によって運営経費を捻出し、黒字化したのです。
ロス五輪以降、IOCは商業化という手段をまるパクリして、資金面での完全自立を図ります。世界の市民がこぞって観たがるスポーツイベントのコンテンツ力を背景に、開催国を契約でがんじがらめにして、収入を独占し開催国に負担を課するだけの存在へと成り代わっていきました。今回、「不平等条約」とたとえられたIOCと日本の関係は、かつて国際政治に屈服させられた民間組織が、自立のために相手国を契約で縛り上げてきた、その結果です。
とはいえ、IOCにも勘案すべき事情があるのはお話ししてきたとおりです。自立の必要性を強く認識したIOCにとって、国家と渡り合うために必要な武器が「自前の財布を持つ」ことだったのです。
たとえコロナ禍であっても、IOCには何の責任もないので、彼らの論理では“平和の祭典”は開催されなければならない、となります。そのために自らを守る「鎧」があまりに強力であるため、外部からはあたかも、武器を携えてごり押しする「悪の組織」に見えてしまっているのです。
テレビ放送権料の魔力
――IOCは至上命題である「五輪の完全な開催」のために、財政の自立と開催国との詳細な契約という手段を採用したことは理解できました。そうすると問題は、いずれも正当な手段であるはずなのに、なぜこれほどまでに市民からの理解が得られないのか、ということになります。
後藤 IOCがこれほどまでに傲慢に映るのは、これからお話しする2点に由来すると考えられます。“テレビ放送権料至上主義”と、“理念を奉じる活動家の組織であること”です。
先ほどからお話ししてきたIOCの商業化ですが、これはすなわち4年間で約6,156億円、1年あたり1,500億円を下らない総収入の73%を占める「テレビ放送権料」のことを指します。開催都市すら決まっていない将来の複数大会にまたがる放送権をセット販売し、放送権料を吊り上げていきました。
大会ごとの金額は明かされていないものの、世界一高額なテレビ放送権料を支払っているのが米国NBCです。金額に比例して強い発言力を持つNBCは、米国で人気がある陸上競技や水泳といった種目の日時や、決勝開始時刻の変更をIOCにたびたび要求しています。昨年、東京五輪の秋への延期や中止が取りざたされた際でも、IOCの“テレビファースト”は明白でした。
米国では、秋はスポーツシーズンと相場が決まっており、アメリカンフットボールやバスケットボール、野球などで放送スケジュールが完全に埋まっています。これらの人気スポーツを差し置いて五輪中継を行うことは不可能であり、かといって人気スポーツの隙間での五輪中継を、NBCが受け入れるはずもありません。実際、IOCとNBCの契約書には、五輪の秋開催は認められないと書かれていると米国で報道されたこともあります。五輪は明確に、テレビに振り回されています。
しかしいくらなんでも、IOC委員から「テレビ放送権料の問題があるから秋への延期はできない」という言葉が出てくるのは異常です。IOCとNBCの契約は、第三者である日本はあずかり知らぬこと。完全に本音と建前の区別がマヒしているがゆえの発言です。
独善的な“五輪教”の普及と遂行が敵をつくる
――一方的に開催国への強要を行う“悪の組織”という印象は、IOCがテレビ放送権料に操られてしまっていることから来ているのですね。もう1点、“理念を追求する活動家の組織”というのは、どういうことでしょうか?
後藤 IOCは、“平和の祭典”である五輪大会を必ず、盛大に行う使命を帯びた組織であると自分たちを規定しています。IOCは「肉体・意志・知性という人間の資質を究極的に磨き、均衡のとれた人間の総体を目指す人生哲学」である“オリンピズム”の普及に努めています 。また、「オリンピック・ムーブメントは、オリンピズムの価値に鼓舞された個人と団体による、協調の取れた組織的、普遍的、恒久的活動である」と憲章で定め、オリンピックをその集大成と位置づけているのです。
このように、理念の実現に邁進する活動家(アクティビスト)の組織であるがゆえのかたくなさも、“悪の組織”問題を大きくしていると思います。だって、五輪の理念を理解している人なんて、日本でも世界でも、果たしてどれだけいると思いますか?
活動家にとって、理念の集大成である大会を中止するという事態は、すなわち“理念の死”を意味します。だから何があっても開催されるよう、契約で開催国を縛っているのです。たとえその理念が、決して全人類が共有しているわけではない“五輪教”にすぎないとしても、です。
バッハ会長の昨今の行動にも活動家ぶりがよく表れています。平和の祭典の責任者が、戦禍の悲惨さを象徴する“ヒロシマ”という場所に足を運び、東京五輪の意義を世界に示すという建前は、おそらく本音でもあるのでしょう。ただし日本人にすれば、我々は移動すら自粛しているのにあの特別扱いは何だ、となるのは当然です。
コロナ禍で東京五輪を強行したことは、“オリンピックはそもそもそんなに大事なものなのか?”と、世界中の人々に思わせる契機となりました。日本国内よりむしろ、海外メディアがIOCに注ぐ視線は厳しいものです。東京五輪は、IOCにとって致命的な失敗となる可能性があります。
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モスクワ五輪ボイコットというトラウマと、オリンピズムという崇高な理念が、IOCが五輪開催をごり押しする動機となっていた。日本政府はこのような背景を理解し、適切に対処したといえるだろうか。
後編では引き続き後藤氏に話を聞き、日本政府が「筋を通す」ために取り得た対応と、ワシントンポストが報じた「IOC貴族はぼったくり」という言葉の内実を検証する。IOCは改革されるべきなのか。IOCの真の「功罪」とは?
(構成=日野秀規/フリーライター)
●後藤逸郎
ジャーナリスト。1965年、富山県 生まれ。金沢大学法学部卒業後、 1990年、毎日新聞社入社。姫路支局、和歌山支局、大阪本社経済部、 東京本社経済部、大阪本社経済部次長、週刊エコノミスト編集次長、特別報道グループ編集委員などを経て、 地方部エリア編集委員を最後に退職。著書に『オリンピック・マネー 誰も知らない東京五輪の裏側』(文春新書 )、 『亡国の東京オリンピック』を文藝春秋から9月刊行予定