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「偉人たちの診察室」第17回・石原莞爾

精神科医が語る、石原莞爾“ADHD”の可能性…成績優秀と奇行、東條英機を罵倒して左遷

文=岩波 明/精神科医
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満州事変の首謀者であり、“帝国陸軍の異端児”と呼ばれた軍人・石原莞爾。太平洋戦争に至る戦前昭和の歴史は、石原抜きには語れない。(写真は1934【昭和9】年頃の石原、画像はWikipediaより)

 1931年(昭和6年)9月、中華民国の奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で、関東軍が南満州鉄道の線路を爆破した事件(柳条湖事件)をきっかけとして、関東軍は満州全土を占領するに至った。これが満州事変である。

 関東軍とは旧日本軍の部隊のひとつで、当初、遼東半島先端にある関東州の守備などを目的としたためこう呼ばれ、司令部は旅順に置かれていたが、中央の了解なしに独断専行でこの作戦を実施したのであった。

 その後、関東軍の主導の下に満州は中華民国からの独立を宣言し、1932年(昭和7年)3月、満洲国が建国された。元首(後の満洲国皇帝)には、清朝最後の皇帝であった「ラストエンペラー」愛新覚羅溥儀が招かれた。

 満州事変の首謀者のひとりである石原莞爾は、代表的な軍国主義者としてみなされることが多いが、実は一風変わった才能豊かな独特な思想を持った人物でもあった。

 石原は、昭和3(1928)年に関東軍作戦主任参謀として満州に赴任し、自身の「最終戦争論」を基本として、「満蒙領有計画」を実行に移し、1万数千人の関東軍で広大な満州を占領した。

 満州国の建国にあたって石原は、「王道楽土」「五族協和」をスローガンとし、日本人も国籍を離脱して満州人になるべきだと主張し、日本と中国を基盤にした独立国を構想した。さらに関東軍に代わって満州国協和会による独裁制によって、満州国を自立させようと企てた。しかしこうした石原の行動は軍部の主流派であった東條英機らとの対立を生むこととなり、閑職に左遷となっている。

 本稿の記載にあたっては、『石原莞爾 生涯とその時代』(上下巻、阿部博行著、法政大学出版局)、『石原莞爾』(青江舜二郎著、中公文庫)、『鬼才 石原莞爾』(星亮一著、潮書房光人新社)などを参考にした。

鶴岡生まれ、14歳で仙台の陸軍幼年学校へ…奇行が目立ち、美術の授業では「便所において我が宝を写す」

 石原莞爾は1889(明治22)年に、山形県西田川郡鶴岡(現在の鶴岡市)で誕生した。父親は警察官であり転勤が多かった。子ども時代の石原は、手が付けられないほど乱暴であると同時にいたずら好きで利発であり、成績は常にトップクラスだった。石原は10人の兄弟姉妹の三男であったが、うち4名が夭折している。

 石原の小学校時代の同級生は、「恐ろしく腕白」だが、「それでいて、なかなか義侠心があって、上級生が下級生をいじめたりすると、飛んできてかばってくれた」と述べている。

 次に記すのは、小学校の授業についての石原の回想である。

 私は小学校で割合出来る方でしたが、授業は一番出来ないビリを相手にするから、50分の時間退屈して困る。仕様がないから、先生の隙に乗じて前の頭をコツンと殴る。それから先生が余り油断してをると、奇襲作戦の稽古として、二三人おいた先を殴る。

 また次のエピソードは、石原の隣人によるものである。

 ある時、私の長男の子守りが莞爾に向かってアカンベーをした。莞爾は怒って、棒を振り上げ「背負っているのは中根の子供ゆえ、ケガをさせてはならぬから早く降ろせ。貴様ばかりは殺してやる」といって追いかけてきたので、子守りは青くなり、家に逃げ込んでくる。家族は驚き、やっと莞爾をなだめて帰すようなこともありました。

 石原は鶴岡の荘内中学をへて、14歳のときに仙台の陸軍幼年学校に進学、ここでも成績は常にトップクラスだった。試験のときにはいつも一番先に答案を出し、悠々と教室を出ていった。しかしスポーツは苦手で、さらに日常の態度は優等生とはかけ離れていた。教官や上官の言動を気にすることもなく、時には真っ向から彼らの説を否定しゆずらないことも多かった。

 さらに石原はいたずらもので、無頓着で無精であり、事件をひんぱんに起こした。なかなか風呂に入らないため、体中がシラミだらけとなった。そのシラミを集めては紙の上に並べて競争させたりもした。

 図画の宿題に、自分の性器を描いて提出したときには大きな問題となった。美術の教師が嫌いだった石原は、「便所において我が宝を写す」と題をつけて提出したのである。このため「品行下劣、上官抵抗」という理由で退学になりそうになったが、学校長の裁量のおかげで放校にはならないで済んだ。

 このように石原は奇行が目立つことが多かったため、「もしかしたらあいつは、七番の部の病気(精神疾患)ではないか」と同級生から噂されたという。

 もっとも、石原はおうようで小事にこだわらない性質で冗談もうまかったので、周囲の人気は高かった。ただ服装や身の回りに気を使うことがなかったため、上官からはよく注意をされていた。

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陸軍軍人から首相、そして1948年、A級戦犯として処刑された東條英機。“努力家で真面目”とされる彼は、天才肌でカリスマ性あふれる石原莞爾とはそりが合わなかったのか。(画像はWikipediaより)

陸軍士官学校を卒業、給料日には借金取り、過去の戦史やマルクス主義関連書籍などなんでも読みあさる

 明治40(1907)年、石原は陸軍士官学校に入学した。あいわからず上官への反抗や侮辱などを繰り返すなど、以前と同様に生活態度は悪かった。剣道の試合で、教官と組打ちになり、相手の急所をにぎって気を失わせたこともあった。

 陸軍士官学校を卒業した後は、山形をへて会津若松の部隊に赴任になる。ここで石原は料亭でよく遊ぶようになり、給料のほとんどを使い尽くした。給料日には借金とりが押し寄せてくるので、当座の小遣いだけ抜いて、あとは早いものがちにと給料袋のまま渡していたという。

 軍隊時代の石原は末端の兵士のことをよく考える士官で、行動は合理的であった。石原が京都第16師団長のときのことである。陸軍記念日には、通常は閲兵式・分列行進で3時間かかる式典を行うのが通例であったが、石原は指揮官1人とともに各部隊の前面を馬を駆け足で走らせて閲兵を済ませ、式典を5分程で終えてしまったという。

 一方で上官に対しては、自分の意見を大声で直言した。二・二六事件のときには、上官である荒木貞夫に対し石原は「ばか! お前みたいなばかな大将がいるからこんなことになるんだ」と怒鳴りつけたことが知られている。

 また一方で石原は非常に勉強熱心であり、毎朝5時に起床して、過去の戦史などを研究し、マルクス主義など当時の新しいテーマを扱った本も熱心に読んだという。

東條英機に対し「憲兵隊しか使えない女々しい奴」、太平洋戦争直前に左遷

 1932(昭和7)年3月、国際連盟からリットン伯爵ヴィクター・ブルワー=リットンを団長とする調査団(リットン調査団)が派遣され、満州国に関しての現地調査を行われた。1933(昭和8)年2月、リットン調査団の報告書をもとに、満州国の存続を認めないという勧告が国際連盟から提出された。このため同年8月、日本は国際連盟を脱退した。

 1937(昭和12)年の日中戦争開始時、石原は参謀本部第一部長であったが、強硬路線を主張する部下を抑えきれず、早期和平の方針で参謀本部をまとめることはできなかった。

 石原は同年9月に関東軍参謀副長に任命されて着任したが、参謀長の東條英機との路線対立が深まり、最終的には1938(昭和13)年には参謀副長を罷免されている。石原の東條への侮蔑は徹底したもので、「憲兵隊しか使えない女々しい奴」などと罵倒、東條を無能呼ばわりしたため、修復不可能な仲となっていたという。

 1941(昭和16)年3月に石原は現役を退いて、予備役へ編入されることとなった。この先、日本軍は泥沼となった日中戦争に加えて、太平洋戦争にも突入することとなる。

太平洋戦争に対しては終始反対、「油が欲しいからとて戦争を始める奴があるか」

 軍を去った石原は、執筆活動、講演活動に力を入れ、立命館大学国防学研究所長に就任したが、軍部からの干渉により辞任している。太平洋戦争に対しては終始反対の態度を示し、「油が欲しいからとて戦争を始める奴があるか」と絶対不可であると主張したが、受け入れられることはなかった。

 石原は「最終戦争論」を唱え、武器の発達によって戦争という事態が絶滅し、恒久平和がもたらされると主張した。戦後の極東国際軍事裁判においては、戦犯の指名から外れたが、証人として山形県酒田の出張法廷に出廷した。

 ここで彼は、「日本に略奪的な帝国主義を教えたのはアメリカ等の国だ」との持論を披露するとともに、東條英機を無能であったと厳しく批判した。

 その後の石原は政治や軍事に関わることはなく、庄内の「西山農場」にて仲間とともに共同生活を送り、1949(昭和24)年に没している。

 東條英機の副官を務めた西浦進は、「石原さんはとにかく何でもかんでも反抗するし、投書ばかりしているし、何といっても無礼な下戸だった。軍人のくせに酒を飲まずに周りを冷たい眼で見ている」と批判している。しかし一方で、石原はカリスマ性を持つ魅力的な人物でもあり、多くの信奉者が存在したことも事実である。

石原莞爾に不注意症状は認めなかったが、ADHDに近い特性を持っていたのではないか

 石原莞爾は軍人としてだけではなく、思想家としても多くの人を引き付ける魅力を持っていたが、同時に破天荒なキャラクターの持ち主だった。彼は子ども時代から天才肌の能力を持っていたにもかかわらず、あばれ者でいたずら好きのかんしゃく持ちであったし、生活面では無頓着でだらしなかった。

 長じて軍の主要なポストについてからも、組織のロジックに盲目的には従おうとせず、上官に対しても自己主張を繰り返した。このように何事にも物怖じしない態度は、幕末に活躍した小栗上野介を思い起こさせる(『精神科医が分析する小栗上野介=ADHD説…有能にして傲慢、生涯に70回余の降格・罷免』)。小栗は幕閣のなかでもっとも有能な官吏であったが、周囲に忖度しない言動により、罷免と任用を繰り返された。

 また私生活において身なり風体へのこだわりがなく、金銭の蕩尽もみられる点を考えると、江戸時代の浮世絵師である葛飾北斎に通じるように思われる(『精神科医が語る葛飾北斎のADHD…生涯93回の転居、頻繁な改名、無礼で金銭には無頓着』)。石原に明らかな不注意症状は認められないが、その特性はADHDに近いものが存在していたと考えられる。もし石原が軍部の実権を握っていたのであれば、日中戦争の様相は様変わりをし、太平洋戦争も防げていたのかもしれない。

(文=岩波 明/精神科医)

岩波 明/精神科医

岩波 明/精神科医

1959年、神奈川県生まれ。精神科医。東京大学医学部卒。都立松沢病院などで精神科の   診療に当たり、現在、昭和大学医学部精神医学講座教授にして、昭和大学附属烏山病院の院長も兼務。近著に、『精神鑑定はなぜ間違えるのか?~再考 昭和・平成の凶悪犯罪~』(光文社新書)、『医者も親も気づかない 女子の発達障害』(青春新書インテリジェンス)、共著に『おとなの発達障害 診断・治療・支援の最前線』(光文社新書)などがあり、精神科医療における現場の実態や問題点を発信し続けている。

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