1月6日、米国食品医薬品局(FDA)はエーザイと米バイオジェンが共同で開発したアルツハイマー病の治療薬「レカネマブ」(米国でのブランド名はLeqembi(レケンビ)を迅速承認した。それは快挙と呼ぶにふさわしい。現在、認知症の7割程度を占めるといわれるアルツハイマー病の原因は不明だ。一つの仮説は、脳内にアミロイドβ(ベータ)と呼ばれる異常なたんぱく質が蓄積し、アルツハイマー病が進行する。この仮説をもとにエーザイはアルツハイマー病治療薬の開発に取り組んだ。昨年10月、エーザイはレカネマブの第3相の臨床試験において、病状の進行を27%抑える効果があったと発表した。FDAの治験でもレカネマブのアミロイドβ除去効果は評価された。エーザイはFDAの完全承認取得に取り組みつつ、日欧中などでも承認を目指す。
7日の記者会見で内藤CEOは「社会的価値を含めて評価されるべきだ」と述べた。認知症患者、その家族にとって介護などの負担ははかりしれない。介護のために離職する人も多い。そうした社会的損失の軽減において、エーザイが果たすべき役割はさらに増える。それは、多くの日本企業にポジティブな影響を与えるだろう。
エーザイ主導で開発されたレカネマブ
これまで40年という長い時間をかけて、エーザイはアルツハイマー病治療薬の開発に取り組んだ。その成果としてレカネマブは生み出された。「不治の病」といわれてきたアルツハイマー病の治療には、画期的な変化がもたらされる可能性は高まった。今回の迅速承認は大いに称賛されるべきだ。迅速承認取得に至るプロセスを振り返ると、エーザイにはいくつかの特異な点がある。以下ではそのなかで2つの点を確認する。
まず、エーザイは自社の研究開発を軸に、他の企業との連携を強化して開発を進めた。バイオジェンとの提携に関して、エーザイは開発および薬事申請の主導、最終意思決定権を持つ。そこには多くの製薬メーカーの事業運営戦略と異なる部分がある。世界の医薬品業界では、成長の基本戦略の一つとして大規模な買収を実施してきた。有望な新薬開発技術などを持つスタートアップ企業の買収も増えている。その結果、ファイザーやロシュなどはメガファーマと呼ばれるように巨大化した。今後も各社は買収戦略を強化し、買収価額はせりあがっていくだろう。
背景の一つとして、新薬開発のリスクがある。いつ、どの程度の収益が実現するかは、あらかじめ予想することが難しい。治験が進められたとしても、その有効性、安全性などがFDAなど主要国の薬事当局に承認されなければ販売できない。開発や治験を進めたにもかかわらず、有効な結果が得られずに中断されるケースもある。そのため世界的に医薬品メーカーは買収を繰り返して新薬のパイプラインを拡充し、さらなる買収資金獲得のために特許切れ治療薬や大衆薬事業を売却した。それは経営体力を高めつつ、リスクを分散するためには重要だ。
一方、エーザイはあくまでも自社の研究開発などを軸に新薬開発を進めた。今のところ、大規模買収戦略に積極的な考えは示していない。「チョコラBB」などの大衆薬事業も継続している。上場企業であるエーザイは株主や患者など多様な利害を円滑に調整し、より長期の視点で事業を運営し、新しい薬を生み出すことへの理解と支持を取り付けてきたと考えられる。それはレカネマブの創出に大きく寄与した要因の一つだ。
新薬開発を支えたあきらめない経営風土
2点目として、1988年4月から現在まで、創業家出身の内藤晴夫氏がエーザイの代表取締役社長を務めている。1975年10月に内藤氏はエーザイに入社し、1983年4月から研究開発を指揮した。事実上、エーザイの認知症治療薬開発は内藤氏が主導した。内藤氏は、あきらめない経営風土を醸成し、強化した。その根底には、最終的に企業は社会の公器として付加価値を生み出し、長期存続を目指さなければならないという信念があるはずだ。
7日の記者会見の内容はそれを示唆する。多くの人が難しいと思っていることこそやりがいがある、というのがエーザイの組織風土といってもよい。そうした風土を醸成するのは経営トップの仕事である。エーザイは内藤氏のリーダーシップの下で大衆薬やがん治療薬の事業を強化した。足許の業績は抗がん剤の「レンビマ」、不眠症治療薬の「デエビゴ」などのブランドが成長している。それらが生み出すキャッシュフローはレカネマブの開発に大きく寄与した。
対照的に、近年の日本ではプロ経営者を登用する企業が増えてきた。例えば、武田薬品工業は外国人のプロ経営者を雇った。それによって、買収戦略、各国薬事当局との折衝、さらには国内事業の再編や資産売却など、成長戦略は強化された。アイルランドの製薬大手シャイアー買収によって武田薬品のビジネスモデルは大きく変わった。ある意味では、既存事業を変革するためには、外部から人材を呼ばなければならないという日本企業の思い込みは強いかもしれない。ただ、プロ経営者の登用が成長につながるとは限らない。
エーザイの場合、レカネマブ開発の道のりはかなり険しかった。特に、2021年にFDAから条件付きで承認を得たアルツハイマー病治療薬の「アデュヘルム」の収益見通しが立たなくなったことは大きい。その後、アデュヘルムをエーザイと共同開発したバイオジェンではCEOの交代が発表された。一方、エーザイの内藤氏はアデュヘルムの開発をストップし、経営資源を自社が主導してきたレカネマブに集中的に再配分した。その上でより低い価格を設定するなどして迅速承認を得た。経営トップのコミットメントは、成長実現に決定的インパクトを与える。
エーザイに見る日本企業の変化の兆し
エーザイの認知症治療薬事業の成長は、日本企業の事業運営の変化の兆しに見える。1990年代初頭に資産バブルが崩壊して以降、日本では過度にリスクを回避しようとする心理が高まった。多くの企業は新しい取り組みを進めるよりも、既存事業の運営を優先した。不良債権処理の遅れもあり、経済は長期停滞に陥った。人口の減少なども加わり、経済は縮小均衡している。過去30年程度にわたって賃金は伸び悩んでいる。
その状況下、エーザイはトップのリーダーシップによってしっかりとした収益の基盤を作り、あきらめることなくアルツハイマー病治療薬を開発した。1996年に米国でエーザイは世界初のアルツハイマー型認知症治療薬である「アリセプト」の承認を得た。エーザイはWHOやビルゲイツ財団と協力し、感染症であるリンパ系フィラリア症の制圧にも取り組んでいる。これまで、インドのバイザック工場にてフィラリア症治療薬の「DEC錠」を製造し、延べ22億錠を無償で提供した。治療薬を開発・製造し、より多くの人が利用できる価格水準などを実現してよりよい健康、生き方、社会を支える、その対価として収益を得るという価値観の醸成が、エーザイの士気を高め、レカネマブの承認を支えたと考えられる。そのために金融業界出身の人材をCFOに招き、自社の生み出す社会的インパクトを可視化した。
レカネマブの承認は、世界の認知症治療の大きな一歩だ。今後、治療体制の強化に向けた取り組みも強化されなければならない。例えば、2週間ごとの投与頻度の高さ、投与できる患者絞り込みの検査コスト、新薬を用いた診断や治療を的確に行う医療体制の確立など課題は多いといわれている。レカネマブが迅速承認を得たからこそ、そうした課題解決の社会的必要性は一段と高まった。
エーザイはレカネマブを患者に一日でも早く届けたいとの見解を示している。今後、同社は国内外の製薬メーカーや、血液検査機器、画像診断処理装置などを製造する企業と連携を強化し、より良いアルツハイマー病の治療体制確立を目指すことになる。競合他社よりも効果が期待される認知症などの治療薬開発も加速されるだろう。そうした取り組みは日本企業に刺激を与え、成長に向けた機運を高める呼び水になるだろう。
(文=真壁昭夫/多摩大学特別招聘教授)