世の中には、モノや情報があふれている。そして、みんなそれを知っているはずである。それなのに、多くの事業者は「売ろう」としている。それも、新規の客を獲ろうとして。
フリーランスの筆者は、自宅で執筆をすることも多いのだが、平日の夕方などには、毎日のように、「土地を売りませんか?」「お得な保険があります」といった電話がかかってくる。
そもそも人は「売り込まれること」を嫌う。欲しいものを「買いたい」のだ。
先日、愛知県岡崎市での仕事の後に、地元の名物「八丁味噌」の工場見学に行ってみた。創業300年以上の有名な老舗調味料メーカー、カクキューである。
工場に入ると、まず味噌のいい香りがする。古い看板も歴史の重みを感じさせてくれ、何かホッとする。とても丁寧に、温かい口調でガイドがさまざまなことを教えてくれる。
八丁味噌は、大豆、水、塩だけからつくり、樽に入れて2年間熟成させるといった工程だ。
樽には6トンの味噌が入っているとのこと。その上にある石も入れると計9トンもあるが、夏には発酵が進むため味噌が膨張し20センチも上下するらしい。
ちなみに「八丁」とは、岡崎城から八丁(約870メートル)の距離からきているとのこと。
この樽をつくる職人、タガをつくる職人、そして樽の上に乗せている石を積む職人が年々減っているという。伝統を守ることの素晴らしさと同時に難しさを感じる。自分の子供たちにもぜひ見せたい、楽しく重要な文化なのだ。
宣伝物
味噌の製造過程や保管倉庫はもちろん、これまで行われてきたマーケティング施策も多く展示されていた。
宮内庁御用達の制度があった頃から、カクキューでは看板などで告知活動をしていた。地元ゆかりの蜂須賀小六と豊臣秀吉がまだ日吉丸と名乗っていた頃の、画期的なクリエイティブが使われているかっこいいポスターなどが飾られていた。
インパクトのあるイメージとコピーの鋭さは、当時からセンスある広告宣伝をされていたのだと実感させる。現在の規模まで拡大されて、操業されているのも理解できる。
大福帳
展示物の中でも特に感銘したのが、当時使われていたという大福帳だ。大福帳とは、江戸時代から使われている顧客台帳で、いわばデータベースである。江戸時代、商人は店が火事になると真っ先に大福帳を抱えて井戸に逃げ込み、焼失から守るといわれていた。
それほど、大福帳つまりお客様データを重要視していたとのこと。
マーケ的ポイント
筆者自身、CRM(顧客管理システム)について教えたり、講座などで顧客データベースの重要性を話しているものの、実際に現物の大福帳を見るのは初めてだ。江戸時代からビッグデータ分析をしていた、というのがなんとも興味深い。
近江商人の「三方よし」と同じで、当時の商人たちは顧客の重要性、特に一度買ってくれたお馴染みさんを大事にする、ということが商売そのものなのだと知っていたことになる。
そもそも大福帳とは、江戸時代から明治大正の頃まで使われていたという「帳簿」の一種で、中には顧客名、何を、いくつ、いくら売ったのかが記録された。いわば、顧客データベースである。
「顧客データベースが福を呼ぶ」と命名したところからも、江戸時代から大福帳の重要性を感じていたといえる。
大福帳さえあれば、ほかがすべて焼けてしまっても、一から商売をやり直せるということである。
この教えをビジネスにどう使うべきか?
経営が行き詰まったり売り上げが落ちてくると、企業は得てして新規顧客を獲得したがる。
もちろんそれは必要なことだが、それよりも先に既存顧客に契約・購入してもらうことが肝要になる。
新規顧客に対しては、自社の特徴と優位性を一から説明しなければならない。したがって、周知のための広告宣伝や営業努力などの、マーケティング的なコストがかかるのだ。
それならば、まずは既存客にアプローチし、新規顧客は既存顧客からの紹介を促す仕組みをつくるのが最適だ。「一見さんよりもお馴染みさん」……これが商売の基本なのだ。
まずは、重要顧客を大事にしているかを見直すこと。そして、既存の顧客にもう一度買ってもらう、または再来店をしてもらう、ということができているかを確認する。その次に、顧客に新しい商品やサービスの良さを伝える。新規顧客を獲得しようとするのは3番目なのだ。
(文=理央周/マーケティングアイズ代表取締役、売れる仕組み研究所所長)