全国のディーラーに寄せられた顧客からのクレームを本社の品質管理部に集め、リコール改善対策検討会に諮る仕組みになっていた。品質管理部は98年頃からクレーム隠しを始めていた。クレーム情報を管理するコンピューターに、外部に出せない情報を「ひとく(秘匿)」「ほりゅう(保留)」の頭文字のHを付けて収めていた。クレーム情報のおよそ半分の3万件に「H」マークが付けられ隠蔽された。クレームの件数を大幅に間引いたのである。
立ち入り検査を受けた三菱自は、00年7月に53万台のリコールを届け出た。これを皮切りに、00年8月に17万台、01年2月に40万台と続いた。リコール隠しによる経営への影響は甚大だった。00年のリコールでは215億円、01年のそれでは170億円の費用がかかった。
リコール隠しはさらに広がった。三菱自動車製の大型車では、92年から04年にかけてハブ(車軸と車輪を結ぶ部品)が破損してタイヤが外れる事故が50件発生した。02年1月、横浜市瀬谷区の路上で走行中の大型トレーラーの左前部のタイヤが外れ、ベビーカーを押しながら歩いていた母子3人を襲った。直径1メートル、重さ140キロのタイヤの直撃を受けた母親は死亡。4歳と1歳の男の子が負傷した。
続く02年10月、山口県熊毛町(現・周南市)の県道で、走行中の大型トラックのブレーキが利かなくなり、道路脇の建物に衝突して運転手が死亡した。横浜の死傷事故も山口の死亡事故も三菱自は「整備不良が原因」で押し通した。
三菱自が欠陥をようやく認めたのは2年後の04年5月のことである。03年1月、商用車部門を分社して三菱ふそうトラック・バスを発足させていた。新会社が国交省に大型トラック・バスのハブに欠陥があったことを報告して11万台のリコールを届け出た。
これらの欠陥は96年時点ですでに認識されており、社内でリコールすべきか否かの議論をしたが、リコールすると90億円という多額の費用がかかることから、ユーザーに告知せず無償修理する“ヤミ回収”で対応していた。安全性は二の次。90億円をセーブして、見せかけの利益を確保することが、最優先されたのである。
横浜市の母子3人死傷事故と山口県の運転手死亡事故で、三菱自動車の元社長、河添克彦、同元副社長で三菱ふそうトラック・バスの前会長、宇佐美隆ら延べ9人が業務過失致死罪で逮捕・起訴された。山口県の事故では08年に、河添が禁固3年執行猶予5年、宇佐美が禁固2年執行猶予3年の有罪判決を受けた。横浜市の事件では10年から12年にかけて、元部長、元グループ長らの有罪が確定した。
三菱自のリコール隠しに続いてトラック・バス部門のリコール隠しが発覚したため、04年4月に入って資本提携先のダイムラークライスラーから追加支援を打ち切られ、経営危機が表面化した。その後、紆余曲折を経て三菱グループの支援が決まり、05年1月、三菱商事出身の益子修が社長に就任。エコカーと新興国での販売強化を軸に業績を回復させてきた。その矢先に、またもリコール問題が起きた。
前回の欠陥隠し事件では、当時の社長・河添が「(隠蔽工作が)担当者の習い性になっていた」と企業体質に問題があったことを認めた上で、「もう一度、信頼される会社に戻りたい」と決意表明をした。そして、行動規範に「車両に安全上の不都合が生じた場合、情報を公開して処置を急がねばならない」との一文を付け加えた。だが、結局、空文に終わった。三菱自動車の隠蔽体質、責任逃れ、内向き文化は温存されたままだった。