洗えるウール開発!田舎の小さなニット会社、なぜ苦境脱し欧州有名ブランドが殺到?
ブランド名の「991」は寒河江市の郵便番号にちなんだという。
同社の創業は戦前に遡る。1932年に佐藤氏の曽祖父である佐藤長之助氏が現在地で興し、84年の歴史を刻んできた。もともと農家で米や野菜をつくり、蚕を飼って絹を生産していた長之助氏だが、洋服文化が入ってきたことで着物の素材の絹が売れなくなった。そこで周辺農家と共に羊を飼育し、羊毛を原料とした紡績業を始めた。祖父も跡を継ぎ、石倉を移築し、機械を導入して本格生産を始めた。父は最終製品にも進出して会社は成長した。
92年、東京のアパレル企業に勤めていた佐藤氏が寒河江市に帰郷。その頃から年々、家業は厳しくなっていった。下請けをしていた大手ブランドが製造拠点を海外に移し、大口需要先を失った。今でこそ好調な佐藤繊維だが、十数年前には苦境に立たされていた。
イタリアで「モノづくりの矜持」を知り、米国で「ブランド化」を学ぶ
「父の代までは、ビジネスには教科書があった。その教科書どおりに考えるなら、『国内生産をやめ、人件費の安い中国やアジアに生産を移す』でしょう。しかし、私は『流行の商品を追いかけないで、山形で独自に開発した糸や服飾品をつくる』道を選んだのです」(同)
そう決意したものの、なかなか注文が入らなかった。苦境を打開するため、試験機を導入して特殊形状糸の研究開発を始め、自らデザインを描いて商品をつくり夫婦で問屋に売り歩いた。週末にはスーパーの前で露天売りもした。だが、なかなか軌道に乗らなかった。
そんな佐藤氏が衝撃を受けたのは、世界的な糸の展示会であるイタリアのピッティ・フィラーティ展に出向き、現地の紡績工場を視察した時だ。
「工場の職人は『オレたちが世界のファッションの基をつくっている』と、こだわりを持って仕事をしていました。糸の買い手であるメーカーに媚びない対等な関係。メーカーに言われるままに糸をつくっていた自分はなんだったのだろうと思いました」(同)
まず大切なのは、モノづくりへの情熱だと痛感した。次に大きかったのは、米国での体験だ。ここで「ブランディング」の大切さを思い知らされた。
かつて佐藤氏が独自のニット商品をつくり、国内の問屋に商品を売りに行ったところ、業者からは「工場なのに高い」「もっと安くしてほしい」と言われ続けたという。その後、縁あって、ニューヨークの複数の展示会で発表した。米国までの流通経費や手数料を上乗せして同じ商品を「日本で高いと言われた価格の4倍」で提示したが、展示会に来た日本人バイヤーからは「自社一貫生産の日本製でそんなに安いのか」と言われたという。