その流れを変えたのが4代目社長の川本信彦氏(90-98)だ。本田氏が逝去したあと、川本社長の指示のもとエンジニアは品質を落とさず、コストを下げることに知恵を絞った。こうしてホンダは米国市場でシビック、アコードを売りまくり、オデッセイでも成功を収めて急成長した。ホンダの躍進は量産車だけではなかった。川本氏が社長に就任した直前の88年、F1の世界ではホンダエンジンを搭載したマクラーレンが16戦中15勝をするなど圧倒的な強さを見せつけていた。当時のホンダは会社の規模は小さかったものの、高い技術力を誇示し光輝いていた。
「ホンダは量産車の会社でしかない」
しかし、ホンダの経営資源が拡大するにしたがって社内は一種の大企業病に侵されていった。会社全体が利益を優先するがごとくコスト低減と販売台数を追うようになった。同時に創業者の理念やレーシングスピリットが希薄になり、ホンダの企業文化も本田氏の理念とはかけ離れたものになった。
マクラーレンのレーシングディレクター、エリック・ブーリエもこういう。
「彼ら(ホンダ)に必要なことはただひとつ。F1レーシングの文化を理解し組み入れることだ」(「AUTO SPORT web」より)
彼は、大企業になったホンダは何事にも時間がかかりすぎるという。同じようなことはホンダでF1を担当した責任者からも聞いた。
「F1とホンダは企業文化がまるで違う。F1は職人の集団だ。しかし、ホンダは量産車の会社でしかない。その違いは歴然としている」
しかし、天才ドライバーと呼ばれたアイルトン・セナが活躍した80年代後半のホンダにはまさに職人肌の技術者がかなりいて、それが仕事にも反映されていた。当時、ホンダでは優勝すること、つまり1位になることだけが評価され、2位にでもなろうものなら、上司からボロクソに言われる会社だった。社内には“勝って当たり前”という雰囲気があった。それが、ホンダのレーシングスピリットだし、DNAでもあった。
名門のマクラーレンから離れ、下位にいるトロ・ロッソとあえて手を組むホンダは、じっくりと時間をかけて競争力のあるエンジンを開発するだろうといわれている。それは同時に、失ったホンダのDNAを取り戻すチャレンジだともいえる。
(文=塚本潔/ジャーナリスト)