父が勤めていた山一證券が廃業…当時14歳の私が起業家になるまで
大学に進み、時間の合間を縫って株式投資を学んで、アルバイトで稼いだ資金をもとに運用をして、それなりのお金を稼ぐことができました。ただ、今になればわかることですが、それは誰がやっても勝てるマーケットだったんです。
アベノミクスで日経平均株価が7000円から2万3000円に駆け上がったような、ちょうどそんな時期だったので、何を買っても儲かっていたのです。しかし、まだ大学生だった私は、それを自分の分析の賜物だと思い込んでいました。
当然、投資の世界はそんなに甘くありません。あるとき、マーケットクラッシュが起きて株価が暴落し、貯めた資産が10分の1にまで目減りしたんです。父の会社に増資をしようと決めていた矢先のクラッシュだったので、これは非常にショックでした。
そこで、「結局、株式投資は人脈も残らないし、おかしな金銭感覚だけが残るギャンブルにすぎない」と気付いて、手元に残ったお金で「自分も起業しよう」と決意したのです。子どもの頃から「ビジネス」が好きだったので、起業を選ぶことに抵抗はなかったですね。
母から聞いた話で私は覚えていないのですが、小さい頃、母が私と兄をお祭りに連れて行ってくれたんです。そこで私が急にいなくなってしまい、母は私を探し回りました。ところが私は、いなくなった場所の目の前にあるたこ焼き屋さんで、屋台のおじちゃんと一緒にたこ焼きを売っていました。母親が「帰るわよ」と言っても、私は「このおじちゃんと、たこ焼きを全国で売って回りたい」と言っていたそうです(笑)。
物心ついてからも、その気持ちは持ち続けていて、小学校高学年のときには、クラスメイトから着なくなった洋服を集めてバザーで売り、数千円の売り上げを出していました。とにかく、子どもの頃から「ビジネス」をするのが好きだったんです。
本格的に起業を考えて、まずやったことは、当時のベンチャー企業経営者たちが出していた本を読み込むことでした。そこでわかったのは、「起業した経営者はみんな営業をやっていた」ということ。
そこで、私も「営業から始めよう」と決めて、光通信の営業の仕事を始めました。とにかくがむしゃらに営業の勉強をして、1年後には光通信のある社内営業キャンペーンで全国の新規営業のトップを獲ることができました。
それも実際は、知人から大口の顧客を紹介していただいたおかげだったのですが、そこで営業には区切りをつけて、すぐに起業しました。
父親からは「絶対うまくいかない」と猛反対されましたが、「どんなに反対されても絶対に成功させて、家族の苦境を自分が救うんだ」という気持ちで走り出しました。このときの「家族を助けたい」という気持ちは、「やむなく廃業を考える中小企業経営者の方々の助けになりたい」という気持ちとして、今も持ち続けています。
――山一證券の廃業によって、勤めていた父親のみならず家族までが苦労を背負うこととなり、その現実を身をもって体験した畑野氏。次回は、そんな畑野氏がM&Aアドバイザリー事業を展開することになった経緯と、株式会社FUNDBOOKが目指すM&Aについて、引き続き話を聞く。
(構成=編集部)
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