経済で新しい時代を拓く――株式取引所設立に尽力した男たち(2)田中平八編

江戸時代にFX業者が存在した?破天荒な天才商売人の素顔


 当時、ヨーロッパは生糸需要の高まりによって日本を新たな供給地として見ていた。ただ、生糸の買い付けには洋銀(スペイン銀貨)と天保一分銀(江戸末期に流通した日本の銀貨)の両替が必要だった。そこで、糸平は自ら両替商になり、ほうぼうから集めた天保一分銀を貿易商に売りつけて儲けを出したのだ。その収益モデルは「現在のFX取引を行う業者と似ている」という。

 明治時代に入り、洋銀と日本銀の交換比率は変動相場制となっていたため、相場の変動を利用して収益を狙う「洋銀取引」が貿易港・横浜で活発に行われていた。その両替商の代表的な存在が、糸平であったのだ。

料亭を通して主要人物たちとのパイプを強化する

 30代前半で大富豪となり、「艶福家」とまでいわれた糸平。1872年には同年に設立された横浜金穀取引所の初代頭取に就任したほか、その翌年には芸者に横浜の料亭「富貴楼」を開業させている。

 当時の料亭とは「待合茶屋」のことで、座敷を貸し出すのが商売であった。貸し出した座敷には芸妓を呼び寄せ、宴会を催したり遊女を呼んだりして客が一夜を過ごす。当時、横浜芸妓は新橋芸妓(銀座)をしのぐほどの勢力を誇っていたという。

 糸平が目をかけていた「お倉」という芸妓はかなりの美人で、彼女に惚れ込んだ政府高官や実業界のトップクラスが次々と汽車で横浜入りしたといわれる。その名前を見ると、当時の大物がズラリ。伊藤博文や井上馨、大久保利通、今村清之助、そして第1回で紹介した渋沢栄一ら、政界や財界の要人が多くいた。

 糸平にとって、「富貴楼」は有力な政治家や富豪たちとパイプを持つ場所だった。ここで得た人脈を生かし、情報を入手し、儲け話を進めたのである。

「取引所ビジネス」の天才が東京株式取引所設立に影響を及ぼす

『証券市場誕生!』によれば、糸平の基本的なビジネスモデルは「取引所を効率的に利用するスタイル」であったという。

 たとえば、先述の「洋銀取引」では、売方と買方の双方に提示した売買値段の差額を利用した取引で稼いでいる。また、横浜金穀取引所では、中国人商人や香港上海銀行と激しい相場戦を演じ、苦境に立たされると取引所の頭取の立場を利用して相手に不利なルール改正を行い、大儲けしたという。さらに晩年、東京米商会所の頭取になると同所の株を上場させ、大きな仕手戦を仕掛けて大儲けしている。

 しかし、糸平は金穀取引所の相場戦で信用を失い、横浜から兜町に居を移した。そこで東京での公債などの売買に注目するのだが、これまでの「取引所利用ビジネス」の癖が出たのか、ここでも公債など公設の取引所設立に向けて動き出す。

BusinessJournal編集部

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