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経済で新しい時代を拓く――株式取引所設立に尽力した男たち(4)五代友厚編

商都・大阪を活性化させた五代友厚は何がスゴかったのか

文=編集部
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「大坂を日本のマンチェスターにするぜよ」

 しかし、上海で見た光景は信じられないものであった。

 清国がイギリスにひどい扱いをされている――イギリスという国の強さをその目で見た友厚は、1862年9月の生麦事件を経て薩摩藩とイギリスの間で勃発した薩英戦争で、自らイギリス海軍の捕虜となる。このときはイギリス提督の配慮で脱出するが、薩英の講和後、友厚は「戦わずして敵の捕虜になった」ということから地元でそしられ、1年半は薩摩に帰ることができなかったという。

 それでも、「日本が欧米にのみこまれてしまうのではないか」という危機感を抱いていた友厚は、薩摩に戻ると渡欧視察団と留学生派遣を提案する上申書を提出。藩主の賛成を得て、鎖国の時代に留学生を派遣することに成功する。

 こうして多彩な経験と見聞を得た友厚は、明治新政府から外国事務掛に登用され、初代大阪税関長にも就任するなど大阪の商人たちの信頼を集めるようになる。当時の友厚の口癖は「大坂を日本のマンチェスターにするぜよ」というものだったそうだ(当時、マンチェスターはイギリス産業革命の中心地であった)。

 さらに1869年には実業界に転身し、貨幣の地金を製造する「金銀分析所」を創設。貿易の発展を目的に、量目の正確な良貨づくりを始める。これで財を成すと、今度は鉱山業の近代化を進めて「鉱山王」にのぼり詰める。

 さらに、貿易、電信、印刷、紡績などの多彩な事業を興し、大阪経済の衰退を食い止める立役者となり、「東の渋沢、西の五代」と称されるようになるのである。

「おおらかで豪快」薩摩人の典型だった五代友厚

 さて、最後に大阪株式取引所について触れなければならない。

 もともと、大阪には「堂島米会所」という米の取引所があった。『証券市場誕生!』に詳細な記述があるが、実はここは世界で最初の「先物取引市場」なのである。

 しかし、1869年に「インフレを起こす可能性がある」ということで政府の手によって閉鎖。その2年後に、穀物商・磯野小右衛門らの働きかけで再開を果たす。

 1876年には米商会所条例が施行され、磯野らは大阪堂島米商会所を設立する。友厚は彼らの後ろ盾となり、同所の運営には自由経済主義や競争原理が導入された。

 その2年後、株式取引所条例が施行され、晴れて取引所の設立ができるようになった。東京では渋沢、今村らが発起人となって設立され、大阪では友厚が自ら発起人となり、大阪株式取引所の設立に尽力したのであった。

 友厚は1885年に49歳の若さでこの世を去るが、日本経済にも影響を及ぼした、その功績は計り知れないものがあるだろう。

BusinessJournal編集部

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