キリンビール社長の布施孝之氏が9月1日、心室細動のため死去した。61歳だった。キリンホールディングス(HD)の磯崎功典社長がキリンビール社長を兼務する。
布施氏はキリン再生の立役者である。1982年に早稲田大学商学部を卒業後、キリンビールに入社。一貫して営業畑を歩いた。「キリンラガービール」が売れに売れ、シェア60%を確保し続けていた幸福な時代に入社した。
アサヒビールの「スーパードライ」が「キリンラガービール」を抜いたのが97年。98年にはビール年間出荷数量でもアサヒがキリンを上回った。これ以降、「スーパードライ」の快走の前にキリンは大差をつけられた。
布施氏は2015年1月、キリンHDの事業子会社、キリンビールの社長に就任した。15年のビール系飲料のシェアはアサヒが38.2%でキリンは33.4%。キリンはすっかり2番手に安住してしまっていたが、布施氏は「今は負け戦である」と公言。それを認めた上で、社員の意識改革という遠回りの立て直し策から始めた。現場を回って社員との対話を繰り返し、組織・風土の改革を進めた。
リーダーシップを発揮しながらも独断専行には陥らないのが布施流だった。プロクター・アンド・ギャンブル(P&G)から招いたマーケティングのプロ、山形光晴氏を信頼し、権限を委譲した。山形氏は慶應義塾大学経済学部卒。1999年、P&Gに入社。日本とシンガポールで主にヘアケア商品や化粧品のマーケティングを担当。2015年、キリンに招かれ、キリンビバレッジを経て17年、キリンビールのマーケティング部長に就任した。
山形氏は着任早々、ロングセラーの「一番搾り」を刷新。最初に搾った麦汁だけを使う「一番搾り製法」のおいしさを改めて訴求する原点に回帰した。CMを含めたブランド戦略を見直し、国民的アイドルの「嵐」がやっていたCMをやめた。家庭でビールを買うのは、実は主婦が多い。「嵐を交代させるなんてリスクでしかない」と非難されたが、布施社長は嵐の交代を迷わなかったという。これが成功し、「一番搾り」は再び成長路線に乗った。
18年には第3のビールの新ブランド「本麒麟」を立ち上げた。「本麒麟」のCMを「うまい」の一言に集約。従来のビール系飲料の定番だった「コク」「キレ」という表現はいっさい使わなかった。
「本麒麟」は初年度に出荷本数(350ml缶換算)が3億本を突破した。売り上げ目標を2回も上方修正し、過去10年に発売されたキリンビールの新商品のなかで売り上げNo.1になる大ヒット商品となった。山形氏は20年春からキリンビール常務執行役員マーケティング本部マーケティング部部長兼事業創造部部長に就いた。20年10月、日本のビールで初めて「糖質ゼロ」を実現した「一番搾り 糖質ゼロ」を投入。巣ごもり生活で高まる健康志向を捉え、アルコール飲料市場を牽引した。
20年のビール類(ビール、発泡酒、第3のビール)メーカー別シェアで、前年2位だったキリンビールが37.0%を獲得。アサヒビールの35.4%を抜き09年以来11年ぶりに首位に帰り咲いた。首位のアサヒは前年から販売数量の公表をやめ、売上金額の発表に切り替えたため、報道各社が独自調査でシェアを算出した。
新型コロナ感染拡大から、ビールの飲食店向け需要が激減。「スーパードライ」を中心に業務用で強かったアサヒは販売量を減らした。一方、キリンは第3のビール「本麒麟」を軸に家庭用を伸ばした。
家庭用市場ではクラフトビールや「ホームタップ」といった高付加価値の高い商品を発売した。ホームタップは毎月、ビールを配送するサブスクリプション(定額課金)だ。専用のサーバーを無料で貸し出し、月額8250円で2リットルのビールを月2回、計4リットルを、ユーザーの自宅に届ける。「一番搾りプレミアム」のほかクラフトビールも提供する。小売店や飲食店を介さずに自宅に届けるDtoCのモデル商品だ。
布施社長は生前、「ホームタップ事業は年末までに10万件の計画に向けて順調だ。縮小が続く国内市場を活性化していきたい」と語っていた。日本マクドナルドホールディングスや日本KFCホールディングスが、マーケティングのプロを招いて再生を果たしたが、キリンもまたしかり。山形氏が再生の立役者といっても過言ではない。
ただ、経営トップとマーケッターは信頼で結ばれ、初めて成り立つのも事実だ。布施社長が急逝した今、山形氏の去就に注目が集まる。
ミャンマー事業で特損214億円を計上
ビール系飲料で国内シェア1位を奪還したキリンだが、海外事業でアサヒと明暗が分かれた。アサヒグループホールディングス(GHD)の21年12月期の純利益(国際会計基準)は前期比68%増の1560億円を見込み、従来予想から40億円引き上げた。20年6月に買収した豪ビール最大手カールトン&ユナイテッドブリュワーズ(CUB)の販売が伸びた。
一方、キリンHDの21年12月期の純利益(国際会計基準)は前期比20%増の865億円を予想、165億円下方修正した。ミャンマー事業が重荷なのだ。キリンは過半を出資する形で国軍系企業ミャンマー・エコノミック・ホールディングスとビールの合弁会社を運営している。
2月の国軍によるクーデター後、ビールは不買運動の標的となった。混乱収束が見通せず、合弁会社ののれん代の減損損失214億円を21年1~6月に計上したことが利益を押し下げた。磯崎社長は「合弁解消の交渉を続け、損失を埋めるために、あらゆる手立てを考えている」と述べたが、交渉は進展していない。
ミャンマー事業が重しとなりキリンの株価は伸びない。8月17日、1915円と年初来安値をつけた。1月4日の2429円の年初来高値から21%の下落である。10月15日の終値は2065.5円(3円安)だった。
夏場からの気温低下や緊急事態宣言の延長で、9月の国内ビール市場は落ち込んだ。販売数量ベースでキリンは前年同月比20%減。アサヒは売上金額ベースで15%減。酒類改正前の駆け込み需要があった前年の反動もあり、ビール4社は軒並み2ケタのマイナス成長となった。
布施社長の不在でぽっかり空いた穴の大きさを再確認することになりそうだ。
(文=編集部)