ちなみに、僕が使用する指揮棒も、「ムラマツ」という会社の製品です。しかし、名前は同じでもまったく違う会社で、こちらは「村松商店」という小さな個人メーカーです。場所は東京・荒川区。すぐ近くに墨田川が流れている江戸前で、それこそ日本の伝統職人のような方がつくっているようです。その指揮棒を海外の指揮者に見せると、「それ、どこで買ったんだ? 僕にも買ってきてほしい」と、よく言われます。世界的指揮者のエサ・ペッカ・サロネンやエッシェンバッハをはじめ、国内外の多くの指揮者が愛用しており、来日した際には、まとめて買っていく外国人指揮者も多いようです。
アジアで生まれた楽器が世界に拡大
シンバルに戻すと、僕の家の法事からフランスのオーケストラのドビュッシー、アメリカでレディーガガの10万人野外コンサートまで、トルコ発祥のシンバルが必要不可欠です。
これは、ほかの多くの楽器でも同じことがいえるのです。実は、多くの楽器は中東を中心としたアジアで生まれ、東へ西へと長い時間をかけて世界に広まった歴史を持っているからです。たとえばハープは、紀元前4000年のエジプトやメソポタミアの壁画にも描かれているほど古い楽器で、トランペットも紀元前1000年より前に同じエジプトに記録が残っています。フルートは、中央アジアで生まれたとも、インドで生まれたともいわれています。このように、アジア生まれの楽器が、その後世界に伝わって、ヨーロッパでも発展したのです。
最初はハープのような弦を指で弾いて弾く楽器が、弓でこすることにより大きな変化を遂げ、ヴァイオリンをはじめとした弦楽器としてヨーロッパに渡り、現在の形に近くなったのが16世紀初頭です。その後も改良が加えられ、特にイタリアの地方の町クレモナにおいて、同時期に多くの名匠が出現しました。今でもクレモナはヴァイオリン製作が盛んな町ですが、1644年生まれ(諸説あり)のアントニオ・ストラディヴァリによって製作された名器「ストラディヴァリウス」の名前は、音楽に興味がない方にも、その法外な値段を通じて知られています。昨年、ZOZOの前澤友作社長が1717年製のストラディヴァリウス「ハンマ」を10億円で購入したことは大きな話題になりました。
ストラディヴァリウスは非常に高額ですが、「骨董品的価値があるだけで、実際の音はどうなのか」と思われる方々も多いかと思います。結論から言うと、指揮台の上で聴いていても、うっとりとする音が出ます。そして表現力に富み、小さな音から大きな音まで、美しくホールの隅々まで響き渡っていく名器です。演奏家としても、一度こんな楽器を知ってしまうと、もう欲しくて夢中になってしまうだろうと想像します。
その点、指揮者の僕は村松商店の2500円程度の指揮棒で十分なのですが、もし「オーケストラがものすごく素晴らしい音を出せるようになる1億円の指揮棒」があったとしたら、「ストラディヴァリウスのために家を売るヴァイオリニスト」の気持ちがわかるのかもしれません。
(文=篠崎靖男/指揮者)