山をテーマにした名曲『アルプス交響曲』
演奏家は、10回中9回成功しても「1回失敗したから」と、夜遅くまで練習を繰り返し、成功確率を限りなく100%になるように努力して、初日のリハーサルに向かいます。つまり、失敗のリスクを下げることに腐心するわけです。それは努力というよりも、「うまくできなかったらどうしよう」という恐怖感がそうさせると言ったほうが近いかもしれません。たとえば、指揮者のテンポが自分の想像していたものとまったく違っても、“最低限の完璧さ”を求められるからです。しかも、周りで演奏している同僚も音楽の専門家中の専門家ですから、どんな小さなミスでもばれてしまいます。指揮者の僕も、難しいリハーサルの前には、荷物をまとめて帰りたくなることもしょっちゅうあります。
それでも、苦しんで困難を克服できたコンサートの後は、達成感も加わって本当に爽快です。それまでの苦労なんて、観客の盛大な拍手と一緒に忘れてしまいます。山登りで、頂上に着いたとたん、絶景に心を奪われ、それまでの苦しさを忘れてしまうこととよく似ていると思うのです。
ところで、山をテーマにした名曲があります。これは、ドイツの大作曲家、リヒャルト・シュトラウスが1914年に作曲した『アルプス交響曲』です。この曲の舞台は、ドイツ・アルプス。正確には、フランスからスイスを通りオーストリアの東端まで貫いているアルプス山脈の北側になります。残念ながら、スイスのマッターホルンや、フランスのモンブランのような名峰がないために、あまり日本人観光客は訪れませんが、ドイツ人にとっては最高の避暑地のひとつです。
この『アルプス交響曲』は、ドイツ・アルプス最高峰、ツークシュピッツェ山を音楽で登るというアイデアの作品です。ツークシュピッツェ山は標高2962mで、それほど高い山ではなく、現在では登山電車で頂上まで登ることができますが、その山頂までの光景がシュトラウスの『アルプス交響曲』とまったく同じです。シュトラウスは、今も実際に羊が群れている美しい牧草地帯をオーケストラ楽器ではないカウベルを使って表現したりしながら、滝や氷河を実際に見ているかのように錯覚させる音楽で描写しています。頂上の直前では、スリルと危険が入り混じったような音楽になるのも、実際の登山にそっくりです。そして頂上に到達した時には、すべてを忘れて登頂の喜びが溢れる。そんな山と音楽の融合を見事に表した名曲ですので、皆様も一度聴いてみてください。
ちなみに、このシュトラウスは、山だけでなくなんでも音楽にしてしまう天才でした。本人の家庭をテーマにした『家庭交響曲』という曲もあり、ソプラノ歌手で騒がしい妻や、元気な子供、おじさん、おばさんまで登場しています。
(文=篠崎靖男/指揮者)