1905年、山田重次郎氏が東京都芝区(現港区)でバブル・コックを製造する工場を作ったのが同社のルーツだ。家業を継承した山田正太郎氏が39年に東京山田油機製作所を設立、これが現在のヤマダコーポレーションとなった。62年に東証2部に上場。自動車整備用機器メーカーで、潤滑油給油ポンプが主力商品だ。12年3月期の連結売上高は83億1200万円、当期純益は5億400万円をあげている。
ヤマダコーポの経営に長年携わってきたのが正太郎氏の長男・豊雄氏だった。戦後間もない48年に入社。東証2部に上場した翌年の63年、33歳の若さで社長に就任。一時、副社長に降格したが、71年に社長に復帰してからは、10年6月に辞任するまで社長を続けた。豊雄氏はヤマダコーポの歴史そのものといえる人物である。
これに対して、弟の和正氏は70年、23歳で父・正太郎氏が設立したワイ・テイ・エス(千葉県四街道市)の社長に就任。正太郎氏は豊雄氏にヤマダコーポを、和正氏にワイ・テイ社を与えたということになる。和正氏はヤマダコーポの社長就任に備えて、今年3月に息子の広和氏にバトンタッチするまで、40年以上にわたってワイ・テイ社の社長を続けてきた。この間、ヤマダコーポの海外担当取締役も兼務した。
異変が生じたのは10年3月期決算。リーマン・ショックによる自動車不況で、自動車整備用機器の需要が激減。営業利益段階で赤字に転落し、最終損益は5億1300万円の大赤字となった。経営責任を追及され、豊雄社長と生え抜きの取締役2名が退任に追い込まれた。
その時新社長に就いたのが、豊雄氏の義弟の村田實氏(75)。工学院大学機械工学科を卒業して、ヤマダコーポに入社した生え抜きで、主に営業畑を歩いてきた。その村田氏が、次期社長に指名したのが、豊雄氏の弟・和正氏だった。これに対してワイ・テイ社の和正氏が、ヤマダコーポまで手に入れようとしていると、豊雄氏は激怒した。そこで村田氏と和正氏の追い落としに決起したわけだ。
ヤマダコーポの株主は山田一族が3割を保有。筆頭株主は資産管理会社・豊和の6.7%。2位は和正氏の5.2%。豊雄氏は6位の3.4%、昌太郎氏は7位の2.9%。一族で分散して保有しているため圧倒的な大株主は存在しない。委任状争奪戦の行方は「予断を許さない」状況といわれた。勝負を分けたのは、OB株主たちの動向だった。