トヨタ、液体水素ハイパーカーを世界初走行…ル・マンで証明した全方位戦略の真価

●この記事のポイント
トヨタの液体水素ハイパーカー「TR LH2 Racing Prototype」がル・マン24時間レースのサルト・サーキットで世界初走行。2024年に欧州BEV販売がマイナス成長に転じる中、HVで最高益を確保しながら水素技術を積み上げてきたトヨタの全方位戦略と、ACOのルール形成を主導した経緯を解説する。
世界最高峰の耐久レース「ル・マン24時間」が開かれるフランス・サルト・サーキットのコースで6月、液体水素を燃料とするレーシングプロトタイプが世界で初めて公道走行を披露した。トヨタ自動車の「TR LH2 Racing Prototype」だ。水素エンジン特有の甲高いサウンドが全長13.6キロのコースに響き渡り、観客から喝采が沸き起こった。
この光景は、単なるモータースポーツの話題ではない。「EVシフト一択」を掲げてきた欧州の自動車産業が、内燃機関の延長線上にある水素技術を正面から受け入れた瞬間でもある。その背後には、約5年にわたるトヨタの地道な技術開発と、「ルールを書き換える」ための戦略的な布石があった。
●目次
- EVバブルの失速という現実
- 「敵は炭素であり、内燃機関ではない」という哲学
- スーパー耐久で積み上げた「実績」という外交カード
- 欧州勢が「スーパー耐久詣で」を始めた理由
- ビジネスパーソンが学ぶべき「ルールメイキング」の論理
- 「長い目」の戦略論
EVバブルの失速という現実
2024年を振り返ると、欧州のEV市場は明確な転換点を迎えていた。欧州自動車工業会(ACEA)のデータによれば、2024年の欧州(EFTA・英国含む)の乗用車総販売台数は前年比0.9%増の1,296万台だったが、BEV(純粋な電気自動車)はマイナス成長に転じた。一方、ハイブリッド車(HV)は前年比19.6%増という大幅な伸びを記録した。
ドイツでは2023年末に政府のEV補助金(最大9000ユーロ)が突然打ち切られ、販売台数が前年比で大幅に落ち込んだ。欧州主要メーカーも苦境に立たされた。メルセデス・ベンツは2020年代末までの「全車EV化」目標を事実上撤回し、ボルボも2030年のBEV100%計画を修正した。丸紅経済研究所の2025年4月リポートは「BEV販売の低迷を受け、欧州メーカーを中心にBEV化目標を引き下げ、PHEVやHVの生産を拡充する方針に切り替える動きが見られる」と指摘している。
インフラ整備の遅れ、充電時間の長さ、そしてバッテリーの残存価値問題。消費者が直面するこれらの課題は、政策立案者が描いた「きれいなロードマップ」とは大きくかけ離れていた。
「EVは重要な選択肢の一つですが、それだけで世界の全てのユーザーのニーズに応えられるわけではありません。地域のエネルギー事情や社会インフラを無視した単一技術への収斂には、経済的・社会的リスクが伴います」(欧州エネルギー政策に精通するエネルギー政策研究家・佐伯俊也氏)
「敵は炭素であり、内燃機関ではない」という哲学
トヨタが水素エンジンの研究開発をモータースポーツの場に持ち込んだのは、2021年5月のことだ。国内スーパー耐久シリーズの富士24時間レースに、水素エンジンを搭載した「ORC ROOKIE GR Corolla H2 Concept」を投入。当時、豊田章男社長(現会長)自身がドライバー「モリゾウ」としてステアリングを握った。
その狙いは明快だった。「敵は炭素であり、内燃機関ではない」——豊田氏が繰り返したこのフレーズは、欧州メディアや一部の環境団体から「EV転換への抵抗」と批判的に受け止められた。「トヨタはEVシフトに乗り遅れた」「ガラパゴスの道を歩んでいる」という論調も少なくなかった。
しかし豊田氏の思考には一貫した経営論理があった。
「カーボンニュートラルのカギを握るのはエネルギーです。現時点では、地域によってエネルギー事情は大きく異なります。だからこそ、各国各地域のいかなる状況、いかなるニーズにも対応し、カーボンニュートラルの多様な選択肢をご提供したいと思っています」(豊田章男社長、当時)
この「全方位戦略(マルチパスウェイ)」は、ハイブリッド車で稼いだ利益を、次世代技術の研究開発に継続的に投資するという経営構造と表裏一体だった。HVの世界市場における圧倒的な優位は、その後のトヨタの業績に直結する。2024年3月期の連結営業利益は約5.3兆円と過去最高益を更新し、EV専業化に舵を切った競合メーカーとは対照的な財務基盤の強さを見せた。
「トヨタのHVで培った電動化技術と、水素の内燃機関技術は相互補完的です。既存の製造インフラとサプライチェーンを活かしながら脱炭素を進められる点は、他社にはない強みです」(自動車アナリスト・荻野博文氏)
スーパー耐久で積み上げた「実績」という外交カード
トヨタの水素エンジン開発は、レース現場での実走を通じて急速に進化した。2021年に気体水素でスタートしたスーパー耐久参戦は、2023年には液体水素仕様へと移行。液体水素は気体に比べてエネルギー密度が高く、長距離・高出力レースへの適性が大きく向上する。
この「現場での検証」こそが、ACOとの交渉において決定的な意味を持った。
2023年5月、富士24時間レースの舞台でACOのピエール・フィヨン会長が日本に来訪し、トヨタ、マツダ、スーパー耐久機構との合同会見に臨んだ。そこで下された決定は業界を驚かせた——「ル・マン24時間レースは2028年から、水素エンジン車のトップカテゴリー参戦を認める」というものだ。
さらに今年(2026年)は、トヨタのWEC参戦車「TR010 HYBRID」と同一シャシーをベースに開発した「TR LH2 Racing Prototype」が、ル・マンの本番コースで世界初のデモンストレーション走行を実施した。これは単なるショーではなく、2028年の正式参戦に向けた技術検証の実戦投入である。
注目すべきはACOがこのプロセスで示したスタンスだ。「何が最良の技術かを決めるのは我々の役目ではない」というフィヨン会長の言葉は、特定技術への傾倒を避け、競争と実証によって最適解を見つけようとする姿勢を示している。トヨタの5年にわたる地道な走行データと安全実績が、この「オープンな場」を引き出した原動力でもある。
欧州勢が「スーパー耐久詣で」を始めた理由
最も興味深い動向は、欧州勢の変化だ。
フランスの名門チーム「アルピーヌ」も水素レーシングカーの開発を進めており、同チームのチーフエンジニア、ピエール・ジャン・タルディ氏は2024年に次のように述べた。「水素に関する技術や実践は、トヨタと日本が何といっても進んでいて、彼らはその知見やアドバイスを提供するのに非常にオープンです。レーストラックの上ではもちろんライバル同士ですが、水素でスポーツができるようにする点では共通の目標を持っていて、そこは横の繋がりです」。
さらに、ル・マン主催者であるACOのフィヨン会長や欧州メーカーの実務担当者が、日本のスーパー耐久シリーズの視察に訪れる事例も増えている。かつて欧州の規制が日本車を「遅れた技術」と位置づけ、EV化の文脈でトヨタを批判した構図は、完全に逆転した。
FIAの水素関連ワーキンググループには、現在少なくとも8社以上のメーカーが参加しており、ACOは2029年までに複数の水素車両メーカーがル・マンに参戦すると予測している。
「ルールを作る側に回ることは、技術的な優位性を持つメーカーにとって最も重要な競争戦略のひとつです。トヨタはスーパー耐久という”小さな舞台”での実績を、世界最大の耐久レースという”大きな舞台”のレギュレーション形成に接続することに成功しました」(同)
ビジネスパーソンが学ぶべき「ルールメイキング」の論理
今回の一連の動きが示す教訓は、自動車産業の枠を超えてビジネス全般に適用できる。
第一に、「トレンドに乗らないこと」のコストとリスクを、冷静に見極めることの重要性だ。EV一本化を宣言した欧州メーカーは、市場の需要構造と政策の揺り戻しという二重の打撃を受けた。一方でトヨタは、「今の正解」ではなく「エネルギー事情と顧客ニーズの多様性」という本質的な問いに立ち返ることで、複数の選択肢を手放さなかった。
第二に、「現場での実証」が国際標準交渉の最強の武器になるという点だ。トヨタが水素エンジン車を最初にスーパー耐久に投入したとき、その意義が国際的なルール形成につながると見抜いていた関係者は多くなかっただろう。しかし5年間の走行データと安全実績の積み重ねが、ACOを動かし、欧州メーカーを技術協力のテーブルに引き出した。ロビイングではなく、実績による「事実の外交」だ。
第三に、「競争相手をルールの共同設計者に変える」視点の大切さだ。アルピーヌとの関係は、競争と協調が共存する「コーペティション」の好例である。水素技術の普及という共通目標のために知見を共有しながら、レーストラックでは激しく競い合う——この構造を意図的に設計したことが、トヨタの水素戦略を単なる自社開発から「業界標準の形成」へと格上げした。
「長い目」の戦略論
液体水素ハイパーカーのサルト・サーキット走行は、トヨタの「完全な勝利宣言」ではない。2028年のル・マン正式参戦に向けては、液体水素の供給インフラ整備、タンクの軽量化、エネルギー密度の向上など、解決すべき技術課題がまだ山積している。
それでも今回の出来事が持つ象徴的な意味は大きい。「EVか否か」という二項対立を超え、「何をエネルギー源にするか」という本質的な問いに立ち返ることで、内燃機関の技術資産を未来の脱炭素社会に接続する道筋が見えてきた。
EV化という大きな潮流の中で「全方位」を貫いたトヨタの戦略は、今後も評価が分かれるだろう。しかし少なくとも現時点では、特定の技術への過度な傾倒がいかにリスクを伴うかを、市場が雄弁に示している。
変化の速い時代に求められるのは、流行に即座に乗る敏捷性だけではない。変化の本質を見極め、自社の強みを活かした「勝ち筋」を長期で設計する構想力——そしてそれを諦めずに実行し続ける胆力である。
(文=BUSINESS JOURNAL編集部、協力=荻野博文/自動車アナリスト)











