企業や個人に選別され、悪あがきする国家 制御不能で根底から存在を見直される時代
●制限される国家主義
そして、グローバル化、国家主義、民主主義の関係は、3者のうち2つの選択を迫られ窮地に陥るトリレンマの関係にあり、3つを同時に追求することが不可能であることが明白な中で、国家主義を崇高で優位なものであるという前提を置かず、グローバル化が不可避である進化環境であるとすれば、結果的に制限されるのは、合理的に考えて国家主義ではなかろうか【註3】。
資本主義市場経済=自由貿易がもたらす格差拡大の内在性を指摘した仏経済学者トマ・ピケティやトルコ出身の経済学者ダニ・ロドリックが主張する国家の積極的な自由貿易への介入、すなわち、グローバル化がもたらす取引費用の低減を、国の介入により逆転させるべきであるという見解は、心情的には理解できるが、果たして可能かは疑問であろう。
ヘゲモニー(覇権)の存在によって取引費用を抑制している状況であれば、逆にその引き上げも可能であろう。しかし、粛々と進行するヘゲモニーの喪失は、取引費用を引き上げることを非常に困難にする。つまり、ヘゲモニーの存在しない状況に多数の主権国家が存在するという状況では、複数国家が協調して、現在のグローバル化(資本のグローバル化とテクノロジーとの結合・融合による取引費用の劇的な低減の流れ)を止めることは非常に難しいのではないだろうか。資本と生産財が世界を自由に移動し、経済的ばかりか政治的そして社会的に相互に結合し、強い相互依存関係にあり、それを強化する現在のグローバル化にあって、国家が、国内での格差の拡大を危惧し、国家の壁を再び高めて、民主主義を盾に社会福祉国家という美名に逃げ込むことは、国家財政が極度にひっ迫する中、はたして現実的であろうか。
ヘゲモニーが弱体化する「Gゼロ」の本当の意味は、国家主義とその背景にある主権国家の力の弱体化であるが、リーダー的国家の不在が、必ずしも世界の不安定を意味するわけではない。ヘゲモニーの弱体化で世界が不安定になるという議論が横行するのは、国家主義を不動の前提に置き、急速な技術革新がもたらす構造的変化を見極めることができないメンタルモデルの強さを示しているに過ぎない。畢竟、これは、主権国家の過大評価と暗黙の国家前提の民主主義、そして、テクノロジーの過小評価に根差すものであるといえる。グローバル化も国家主権も民主主義もすべてが変化していくものなのである。別の言い方をすれば、個人の力が拡大していく中で、個人にとっての「国家」「民主主義」「資本」というものに対する認識は時代とともに変化し、その意味合いと相対的な重要度は変化してきているということであり、現在のハイパーグローバリゼーションとは、その変化の表れと捉えることもできるのである。
繰り返しになるが、国家の存在力の相対的かつ絶対的低下をもたらす現在のグローバル化は、人類に選択権のある進歩ではなく、人類が自らつくってしまった選択権のない環境適応としての進化環境であると考えたほうが、個人も企業も国家も適応率・生存率は高まるのではないかということである。
(文=小笠原泰/明治大学国際日本学部教授)
【註1】Peter F. Drucker,, “The Age of Social Transformation”:The Atlantic Monthly, Volume 274, No. 5(1994): pp. 53-80.
【註2】John Naisbitt, Global Paradox:The Bigger the World Economy, the More Powerful Its Smallest Players, William Morrow&Co (1994)
【註3】これに対して、テクノロジーの進歩を過小評価、国家主権を過大評価して希望観測的に国家主権を最優位とし、その強化を強く提唱する論者には、ダニ・ロドリック(『Globalization Paradox:Democracy and the Future of the World Economy, 2011』<邦訳は『グローバリゼーション・パラドクス:世界経済の未来を決める三つの道』>)がいる。