『花子とアン』で話題のカフェ、100年生き残った秘訣 斬新な広告宣伝と身の丈経営
「海軍のコーヒーは、もともと当社が納入しており、東京・新川の工場から横須賀の海軍基地へ運んでいました」と長谷川氏が語るように、同社は海軍のコーヒー指定業者でもあった。そうした会社だが、戦時中にカフェーパウリスタから日東珈琲という現社名に変更している。これは「敵国用語を使うなという当局の指示に従ったもの」(同)だったそうだ。
やがて終戦。その後の同社は、日本軍の隠匿物資だったコーヒー豆や、進駐軍の横流し品、チコリなどの代用コーヒーをやりくりしながら焙煎業を続けた。贅沢品に指定されて輸入が禁じられていたコーヒー豆の輸入が解禁されたのは、朝鮮戦争が勃発した1950年だ。
ちなみに長谷川氏は、関東大震災の翌年にブラジルに渡った水野氏から経営を引き継いだ2代目社長・長谷川主計氏の長男である。東京大学卒業後に王子製紙に入社して、工場の勤労部や本社の企画部で勤務した。69年、41歳のときに父が死去したため、万感の思いで退社して家業を継いだという。
翌年、同社は本社工場を中央区新川の戦前の工場の跡地に再建した。同年、創立の地である銀座に直営店「カフェーパウリスタ銀座店」を再開し、銀座との結びつきをつなぎとめている。
その後、カフェに関しては銀座店だけで営業を続けた。社業の柱は業務用コーヒーのほか、通信販売で家庭用や職場用のコーヒーの小売り販売に注力してきた。88年には千葉県松尾町に近代的なコーヒー総合工場を建設しており、現在も同工場で焙煎されたコーヒー豆を各取引先に納入している。
つまり、主力事業を地道に太くしつつ、身の丈経営を続けたのだ。
近年の社業は、堅調に拡大している。これは、上智大学外国語学部出身でポルトガル語、スペイン語、英語が堪能な現社長の長谷川勝彦氏が積極的に産地に出向き、現地の志の高い生産者と対話を重ねて、良質なコーヒー豆を買い付けてきた成果が大きい。その品質が通販愛用者からの支持を広げ、同社の看板商品である「森のコーヒー」の愛飲者は15万人に達したという。現在の売上高は非公表だが、業界における中堅焙煎メーカーの位置を占める。
銀座店も、昨年9月に客席を拡大させて新たな一歩を踏み出した。総客席数は大正時代の全盛期とほぼ同じ100席だという。
「100年企業」が世界で最も多い日本だが、その実情はさまざまだ。グローバル企業に成長した大企業もあれば、地道に歩む中小企業もある。もちろんカフェーパウリスタは後者だ。試練に直面した時に守りを固め、幹を太くしたからこそ、生き残ることができたのだろう。
(文=高井尚之/経済ジャーナリスト・経営コンサルタント)