孤高のギターリストKelly SIMONZ(ケリー・サイモン)が“超絶”に語る日本の音楽ビジネスと欧米との違い
ネオクラシカルメタルという音楽ジャンルがあるのを知っているだろうか。音楽に詳しい人でなければ、まず聞き慣れないジャンルだろう。
ネオクラシカルメタルとはHR/HM(ハードロック/ヘヴィメタル)の流れを持つジャンルを指す。オーケストラなどのクラシックと同じコード進行を用い、ギターやキーボードが速弾きなどの高度な技術を演奏に組み込むのが特徴で、ベースやドラムにも高い技術が求められる。その一方でヴォーカリストのメロディラインは非常にポップで聞きやすくて美しい旋律を持つことが多く、日本のHR/HMの中では人気の高いジャンルだ。
このジャンルの創始者はスウェーデン出身のギターリストで、日本でも高い人気を誇るイングヴェィ・マルムスティーンと言われている。日本ではConcert MoonやArk Stormといったバンドがネオクラシカルメタルバンドに属し、メジャーデビューを果たすなど活躍しているが、このジャンルで忘れてならないのはKelly SIMONZ(ケリー・サイモン)という男だ。
彼は高校卒業直後に単身渡米して音楽を徹底的に学び、帰国後日本人でありながらKelly SIMONZ という外人名を自らに付し、活動を開始。瞬く間にメジャーデビューするものの、その直後に活動のほとんどインディーズに移す。しかし、人間の限界を超えた超人的テクニックと琴線に触れる美旋律を武器に国内外で知名度を上げた超絶ギターリストである。
いまでこそビジュアル系を含む日本のバンドやBABY METALが海外で大規模なツアーを組んだり、海外の大きなフェスに立ったりするニュースを目にするようになったが、Kelly SIMONZ も2000年初期に元Deep Purpleのグレン・ヒューズと元Rainbowのジョーリン・ターナーというビッグネームと共にヨーロッパツアーに出るなど、まだその当時日本人アーティストが海外ツアーを回るのが一般的ではなかったころに先駆者的に行っていた。
彼は驚くことにプロダクションには所属していない。その類まれなる音楽の才能の他に、プロモーションからマネージメント、場合によってはBlu-rayの映像制作まで、全てをこなす万能さを持ち合わせており、風貌から活動範囲まで海外アーティスト然としているその様は、日本人が憧れる海外のロックミュージシャン像そのものと言える
しかし、それだけの才能を持ちながらもこれまでの音楽活動は前途多難だったと聞く。そこで、インディーズやメジャー、海外と全てを渡り歩き、すいも甘さも知ったその感性から日本の音楽業界について感じること、海外のツアー事情や日本との違いなどKelly SIMONZ 自身のことも含めて様々な質問をぶつけてみた。
――ビジネスメディアにまさかのKelly SIMONZさんの登場となりましたね。ご自身のことを交えながら色々聞かせてください。
Kelly SIMONZ(以下K):ギターを一切弾かない仕事というのはあまりないので、すごく新鮮ですよ(笑)。
――早速なのですが、1999年に『SILENT SCREAM』でメジャーデビューし、2014年の『BLIND FAITH』をキングレコードからリリースするまでの15年間、活動のほとんどをインディーズに移されていました。一般的に考えればメジャーで活躍されていたほうが良い気がするのですが、何か理由はあったのでしょうか。
K:ビジネスの問題が大きいですね。メジャーからリリースした途端に収入が激減してしまったからですよ。
――それは印税が少なかったということでしょうか。
K:そうです。僕はメジャーからリリースする前に、自主制作盤で『Sign Of The Times』というアルバムをリリースしていました。このアルバムは自分自身でインターネットを使った簡単なプロモーションしか行わなかったにも関わらず、発売から1年で10000枚くらい売れたんです。そのときに得た収入と比べると激減したと言わざるをえない状況でした。
――『Sign Of The Times』は発売当時、かなり話題になりましたよね。誰もその当時、無名の新人ギターリストの自主制作アルバムなんて思わなかったと思います。
K:いまでもあのアルバムをきっかけに僕を知ってくれたと言う人が多いんですよ。自主制作盤にも関わらず、当時のディスクユニオン売上ランキングで、メタリカ、メガデスに次いでKelly SIMONZ という珍事まで起きたくらいですからね(笑)。
――その自主制作盤『Sign Of The Times』が売れたこともあって、ロードランナーレコードより『SILENT SCREAM』でメジャーデビューを飾ることができたのですが、実際メジャーになって収入はどのくらい減ってしまったんでしょうか。
K:10分の1くらいにまで落ちました。自主制作盤は売り上げの70%は自分で確保できるんですが、メジャーからのリリースとなるとそういうわけには全くいかなくなります。
――10分の1……。そんなに落ちてしまうものなんですね。枚数はどの程度売れたのでしょうか。
K:20000枚は売れていたはずです。前作の2倍売れたのにも関わらず、印税という方式になった途端、収入が半分以下。正直やっていけないと思うと同時にプロの厳しさを知りました。
音楽業界にも垣間見られる島国“日本”の独特な気質
――どこかのプロダクションか何かに所属するという選択はなかったのですか?
K:そういう選択肢もあったと思うんですが、その当時は色々とあって、上手くいきませんでした。
というのもHR/HM界に自主制作盤を引っ提げて参入したものの、僕が異端児すぎたのか、ものすごく売れた反面、妙な誤解と先入観を業界とリスナーからなぜか持たれてしまい、誹謗中傷がすごかったんです。あの当時、2000年前の頃ってネット上でのマナーとかルールなんて意識がなくて、ほとんど無法地帯だったじゃないですか。当時の2chでは、あることないこと散々言われました。
はっきり言って、応援してくれるファンができた以上に、周りは敵だらけのような状態にも陥っていました。もちろん家族をはじめ、味方してくれる人も大勢いてくれたんですが、メジャーデビューしてからも業界の人からはっきりと「周囲から嫌われていますよ」と言われたくらいです(苦笑)。
――業界の人から嫌われていると教えられるのは厳しい状況ですね。
K:またその当時タイミング悪く、メタル界に絶大な影響力を持つ、ある音楽雑誌が売り出そうとしていたネオクラシカルバンドと、僕の音楽性がドンピシャでかぶっていたんです。そのバンドはバックにそれなりにサポートがあったけど、僕にはなかった。だからいきなり海外からパッと現れて、なんの後ろ盾のない僕の自主制作盤がバーンと売れてしまってメジャーデビューし、さらにメジャーでも売れたことが面白くなかったんでしょうね。その雑誌から僕は無下に干されるような結果になってしまい……。いま現在も含めて、一度もその雑誌に取り上げてもらえたことがありません。
でも、今思い返すとそれはそれで良い試練を与えられたと考えています。当時唯一僕がお世話になっていたギタリストの成毛滋さんに「苦難は乗り越えられる人間にのみ与えられるギフトのようなものだ」といわれた事も救いでしたね。
――嫌われるはまだしも、干されるというのはよっぽどですね。
K:その打開策案をレコード会社から提案してくれたりもしたんですが、どう考えても僕のプライドが許すような扱いではなかったんで、断ってしまったんです。
そういったことをすんなり受け入れられればまた違ったのかもしれないですが、日本独特の気質というか、文化にズレを感じていたんですよね。
――日本と海外ではやはり違いがあるのでしょうか。
K:大きな違いは、海外は完全実力主義ということです。もちろんコネクションが全くないとはいえませんが、基本的に実力さえあればすぐに大きなツアーやバンドに引き抜かれたり、活躍の場を勝ち取ったりすることができます。すごく分かりやすい構図です。
だけど日本の場合、見えない形の組織というか関係性をというか、何かに属していないとダメみたいな風潮を感じます。実力よりも関係性や周囲への影響を重視されてしまうんですよね。
昔からの関係のある知り合いとかであれば、あまり実力がなかったりようなする場合でも、仁義として成り立ってサポートしてくれたりもするんでしょうが、僕みたいなアメリカ帰りの新参者には仁義が成立しないことが多々ありました。
海外は完全実力主義だが現実は想像以上に残酷
――その後、メジャーのロードランナーを去り、ヨーロッパのLion Musicと契約し、『The Rule Of Right』をリリースしましたね。なぜ海外のレーベルに移ったのでしょうか。
K:日本でHR/HMをやろうとすると、市場が極めて狭いからビジネスとして成り立ちません。海外アーティストのようになりたくて僕はギターを始めたわけですから、ワールドワイドで考えないとダメだと思ったんです。
だけど、海外とはいえインディーズなので音楽をやり続けるのは簡単なことじゃありません。活動経費や給料は自分で捻出しなくちゃいけないわけですから。
――Lion Musicでの印税はどうだったのですか?
K:比較的良かったんですよ。ヨーロッパでも売れたんで、それなりの金額をもらえました。
――その後、あの元Deep Purpleのグレン・ヒューズと元Rainbowのジョーリン・ターナーのヒューズターナープロジェクトと大きなヨーロッパツアーに出ていますね。海外のビッグなツアーとはどういった様子なのでしょうか。
K:オープニングアクトとして帯同したわけですが、ツアーははっきり言って地獄でした。カプセルホテルみたいなベッドとトイレのある二階建てバスで延々回るんです。トイレは初日につまって臭うし、60cmくらいしか縦幅がないベッドの空間に押し込まれて1カ月も過ごすわけですから、みんな精神が病んでいましたよ。
――ツアーとかいうと旅行のようで楽しそうなイメージがありますが……。
K:とんでもない! 行ってみて分かったことですが、オープニングアクトなんてツアースタッフが本番前に少しライブをさせてもらうみたいなものなんです。僕らはグレン・ヒューズとジョーリン・ターナーのショーを成功させるためだけに存在するコマなだけでした。
――ライブ以外の雑用もやったのでしょうか。
K:当然です。機材の搬入から搬出まで全て手伝いました。だいたいショーが終わるのが夜の21:00で、そこから機材の搬出が始まって撤収が24:00。それからバスで移動。朝の10:00くらいに次の会場に到着して機材搬入。12:00くらいから出演者のサウンドチェック。夕方になってようやく何か食べられる。そして本番。4日間続いて中1日休み。あとはこの繰り返しです。
何かトラブルがあったらすぐに対応しなくちゃいけないし、文句を言われるのも我々だったし、スタッフから意味も分からずキレられたり、八つ当たりされたり、ギターをぶん投げられたり、散々な目にもあいました。
24時間中、ライブをさせてもらえるたった40分間に向けて頑張って、あとは楽しいことなんて何ひとつありませんでした。
――過酷ですね……。食事やシャワーはどうしていたんですか?
K:食事は会場にあるケータリングです。だいたいが薄いパンとハムとレタスだけなんですけどね。でもそれしか食べるものがなかったし、そこで食べないと食べる時間もないから無理やり食べていました。
シャワーは会場にあるものを使わせてもらうんですが、日本みたいにきちんとした設備が整っていないから、お湯が出ないなんて当たり前です。
――メインアクトであるグレン・ヒューズとジョーリン・ターナーも同じように一緒のバスでツアーに回るのですか?
K:全く違います。彼らはきれいなホテルに泊まって、BMWの大きなリムジンに乗って颯爽と会場に現れるんです。本当にHR/HMのツアーは過酷ですよ。メインアクトにならないとこうも扱いが違うのか、と。
――しかし、それだけ大規模ツアーなのだからギャラは相当良かったのでは?
K:ギャラなんてありません。会場でCDを売るだけです。そこでの売上が強いて言えばギャラでした。
――海外でプロフェッショナルとしてやっていくのは想像以上に過酷ですね。でもそこから得るものもあったんじゃないでしょうか。
K:音楽活動は経済的にも精神的にも豊かでないと、とてもじゃないけどやっていられないと思い知らされました。
(後編へ続く)