池袋駅は、東京の三大副都心のひとつとなる池袋エリアの玄関口だ。駅前は東口・西口とも百貨店や家電量販店など大型店舗が並ぶ商業地で、東京でも屈指の繁華街となっている。鉄道路線は、JRの山手線をはじめ、湘南新宿ラインや埼京線、東武東上線、西武池袋線、東京メトロの丸ノ内線、有楽町線、副都心線が発着、北部や西部に放射状に広がる路線のターミナルともなっている。東京と埼玉県各地を結ぶ玄関口にもなっているのである。
池袋駅全体の乗降人員は2018年度統計で1日約268万人となり、新宿、渋谷に次いで第3位。ちなみにこれは日本だけなく、世界的に見ても第3位となる巨大ターミナルだ。もっともの近年の動向を見ると1992年度が池袋駅のピークで、この時代は1日300万人を超える乗降客があった。JR単独でも1日の乗車人員は60万人台で、乗降としては120万人台にのぼっていた。
実はJRでは2001(平成13)年から湘南新宿ラインの運転を開始、さらに東京メトロでも1994(平成6)年に有楽町線新線(当時は営団地下鉄)、2008(平成20)年には副都心線も開業、池袋駅を経由して各方面への移動が便利になったことから、駅改札口を通る乗降としては数値が減少しているのだ。
「品川線」の開業
池袋という街の成立と発展には、鉄道の存在が大きく関係している。江戸時代、池袋駅のある豊島区界隈は池袋村など7つの村があったが、人口は合わせて3,000人にも満たない農村だった。時代が明治に移り、1885(明治18)年には山手線のルーツとなる品川~赤羽間の「品川線」が開業した。日本鉄道は、高崎線や東北本線などを建設、現在のJR東日本エリアの鉄道を建設していった私鉄だ。
日本鉄道は先に開業していた新橋~横浜間の鉄道(現・東海道本線)に線路をつないでおく必要性を掲げて品川線を建設したのである。当初の途中駅は、渋谷、新宿、板橋の3駅だけで池袋駅はなかった。池袋には駅を設けるほどの需要はなかったのである。
その後、東北本線では1896(明治29)年に田端駅が加わった。日本鉄道によって建設が進められていた現在の常磐線を分岐する拠点として設置されたのだ。さらにこの田端駅と品川線を結んで東海道本線に連絡することも発案された(当時、東海道本線は新橋駅が起点で、秋葉原~新橋間の線路はなかった)。これは同年に開催された日本鉄道の株主総会で決議され、「豊島線」と呼ばれることになった。
豊島線のルートは当初、現在の池袋駅の南側に雑司が谷駅を設け、ここから分岐させる計画だった。しかし、のちに巣鴨刑務所となる巣鴨監獄を通ることになり、許可が下りなかった。ちなみに巣鴨刑務所は1958(昭和33)年に閉鎖され、跡地はサンシャインシティに再開発されている。
そこで豊島線は品川線開業後に追加設置されていた目白駅から分岐させることになったが、今度は沿線住民の反対にあった。さらに目白駅の周辺地形は今後の駅拡張に不適当という判断も出された。
かくして現在の池袋駅の位置で品川線と豊島線を分岐させることになった。現在につながる大規模な鉄道用地を確保できたことでもわかるように、周辺は雑木林や畑などが広がり、大した集落はなかったのである。
単なる「信号場」だった
日本鉄道は豊島線の建設に向けて、まず1902(明治35)年5月10日に池袋信号場を開設した。「信号場」という名称でもわかるように、当初は乗客や貨物扱いを行わない、単純な分岐施設だった。
その後、池袋~田端間の工事は無事進み、翌1903(明治36)年4月1日に池袋~田端間が開通した。この時、信号場だった池袋も営業扱いのある駅に昇格している。ちなみにJR東日本の池袋駅開業日もこの日を使っている。
1914(大正3)年に東武鉄道東上本線の前身となる東上鉄道が池袋~田面沢(現・廃止。川越市~霞ヶ関間)間で開業した。東上鉄道は池袋駅が開業した1903(明治36)年に免許を申請しているが、その目的地は川越に留まらず、児玉、高崎を経て渋川まで。さらに第二期として現在の上越線に近いルートで新潟の長岡まで達する全長237kmにおよぶ壮大な計画を持っていた。
また、当初の起点は池袋でなく、大塚とされていた。実は日本鉄道の池袋駅開設を契機に1907(明治42)年に立教大学が駅の西側に学校用地を取得、さらに豊島師範学校(のち東京学芸大)も同じく駅の西側に開校するなど、文教地として注目を受け始めていた。東上鉄道は時代の空気を読み、大塚辻町で免許を得ていた起点を池袋に移転したといわれている。
さらに、東上鉄道開業の翌年には西武鉄道池袋線の前身となる武蔵野鉄道が池袋~飯能間で開業した。こちらも当初の起点は池袋でなく、巣鴨とされていた。当時の巣鴨は中山道に面した門前町として栄えていたが、すでに街が形成されているところへの鉄道敷設は大変で、東上鉄道同様、起点を池袋に移したとされている。
また、池袋での学校開校は立教大学、豊島師範学校に留まらず、成蹊学園の前身となる成蹊園、自由学園など、さらに1924(大正13)年には「東京鉄道教習所」も開校している。
1906(明治39)年の「鉄道国有法」で日本鉄道のような大私鉄が国有化され、国鉄として一元管理されることになった。これにより国による鉄道職員の組織的な育成も必要となり、1909(明治42)年から専門の教習所が各地に設置されている。
文教地区として発展した池袋
このうち東京に設けられたのが東京鉄道教習所だった。当初は麹町に設置されていたが、1923(大正12)年の関東大震災で被災、当地に移転してきたのだ。池袋駅の西側に隣接して約3万7,000平方メートルもの広大な敷地が用意され、1954(昭和29年)まで鉄道職員の育成にあたった。さらに鉄道職員の子弟に対して教育をはかる東京鉄道中学校もあったが、これも東京鉄道教習所の敷地内に移転された。同校はのちに芝浦工業大学高等学校となっている。
東京鉄道教習所は1982(昭和57)年まで当地にあったが、同教習所は国分寺に移転、1987(昭和62)年まで中央鉄道学園として存続している。また、芝浦工業大学高等学校は1982(昭和57)年に板橋に移転している。東京鉄道教習所の広大な跡地は再開発され、現在ではJR東日本グループの「メトロポリタンホテル」「メトロポリタンプラザ」などになっている。メトロポリタンプラザの入り口わきには、東京鉄道教習所の歴史をしのぶ蒸気機関車の動輪が設置されている。
当初、文教地区として発展した池袋が、繁華街へと成長していくのは、先述の1923(大正12)年に発生した関東大震災がきっかけとなった。中心部に住んでいた人々が郊外へと移住、さらに震災復興の都市計画で池袋には明治通りが通じ、池袋駅周辺の道路整理も進められていった。
さらに1932(昭和7)年に東京の市域が拡大されて東京35区が誕生、現在の豊島区が誕生、池袋駅付近に区役所が置かれた。このころから池袋駅周辺に百貨店も進出、1935(昭和10)年には現在の西武百貨店の前身ともなる菊屋デパートも開店している。
こうして新宿、渋谷と並ぶ一大ターミナルとして発展する基礎が、徐々に出来上がっていったのである。
(文=松本典久/鉄道ジャーナリスト)