認知症に対する最大の問題のひとつは、認知症そのものではなく、認知症に対する不安、心配であると、本連載では繰り返し書いてきました。今の生活にそれほど不自由はないのだけれども、明日の生活が心配。ピンピンコロリで死んでしまうのならいいけれど、ボケて生き続けるのは心配。明日の心配を今から心配している、そういう状況です。
この心配は普遍的な心配のひとつといっていいものでしょう。「明日のことがわからない不安」とでもいえば、わかりやすいかもしれません。明日も今日と同じような日々が訪れればいいけれど、何かよからぬ変化が現れたらどうしよう。特によくない変化についての心配です。昨日より物忘れが進んでいる、お釣りの計算が今までのようにさっさとできない――。明日もっと進んだら、1年後は、5年後はどうなってしまうのか、という心配です。
つまり「認知症に対する不安、心配」とは、「変化することに対する不安、心配」といいかえることができるでしょう。
しかし、よく考えてみてください。変化しないとなったら、どういうことになるでしょう。ずっと同じ生活が続くとしたら、それもまた耐え難いことではないでしょうか。「いや、今の幸福が延々と続いてくれたら、そんないいことはない」と考える人がいるかもしれません。しかし、それは今幸福でない人、あるいはその人を支えている人が幸福になるチャンスをも奪っている面があるのではないでしょうか。
「変化」には、「良い変化」も「悪い変化」もあります。変化の悪い面だけでなく良い面にも目を向けてみると、案外解決の道筋が見えてくるかもしれません。そういった方向は、以下のように一般化できます。
「変化することに対する希望、期待」
老化ということは、希望や期待よりも、不安や心配のみを増大させやすい、そういう面があるでしょう。認知症に対する気持ちも、そうだと思います。しかし、必ずしもそうではないと思います。実際に認知症患者が不幸なのは、認知症ではない人がその負の面ばかりに焦点を当て、不安や心配ばかりを語るからではないでしょうか。認知症患者自身は実際のところどうなのでしょう。そういう視点で認知症の人を見てみると、意外なものが見えてくるかもしれません。