「おばさん。うちが未婚の母子家庭だから幼稚園の風紀が乱れるって触れ回るの、止めてほしいんだけど。僕たち、園の運営に迷惑かけたりしてないよ。うちにはうちの事情があるから、いちいち説明しなくても、保護者どうし仲良くしてほしいんだ。」
幼稚園で「未婚の母子家庭」への差別感情を持つ保護者に、大人顔負けの物言いで抗議する5歳の子ども。決して感情をあらわにすることなく、淡々と相手を言い負かす様子は、年齢からするとかなり異様でもある。
非難の言葉が飛び交う世の中だからこそ鮮烈なヒューマン・ドラマ
『小節は6月から始まる』(青山太洋著、幻冬舎刊)の登場人物の一人、牧森優輝が言う通り、優輝の母親・未代はシングルマザーとして優輝を育てている。高校時代の先輩でもあった交際相手の園井との間にできた子どもだったが、園井が転職で福岡に引越す時、未代は彼について行く決断ができなかった。一緒に福岡に行くということは、死んだ父・慶三から引き継いだ横須賀の喫茶店「マートル」をたたむことを意味していた。だから未代は、妊娠の事実を告げぬまま、自ら身を引いたのだ。
父から引き継いだ店を、拙いながらもどうにか切り盛りしている未代だったが、けっして独りぼっちではない。父親が経営していた頃の常連客が、長年の習慣からか、はたまた未代が心配なのか毎日のように顔を出すし、なにかと気にかけてくれる親友もいる。何より、未代は息子である・優輝から、死んだ父を感じていた。
顔立ちが似ているというわけではない。冒頭で触れた、妙に大人びたその口調である。詳しくは触れるのは避けるが、その口調は「父そのもの」。未代は確かに、死んだ父に見守られているのである。
周囲の人々に支えられながら生きる未代だったが、新しい恋の気配もある。店を手伝ってくれるアルバイト大学生の永松悟は、ひそかに未代に思いを寄せ、「悪い虫」がつくのを警戒する古くからの常連客からの厳しい視線にも負けずに、少しずつ距離を縮めていく。未代は未代で、子どもがいて、かなり自分の方が年上だという状況に気おくれを感じながらも、永松に好意を持ち始めていた。
しかし、永松は未代に思いを伝える前に、大きな人生の選択をしなければならなかった。北海道出身の彼は、地元での就職を控えていたのだ。未代に思いを告げるなら、就職は辞退しなければいけない。もし、未代が自分を受け入れてくれたとしても、就職で遠距離恋愛になるならば、会ったことはないが存在は知っている園井という男と同じになってしまう。
わざわざ北海道まで出向き、内定辞退を伝えることで仁義を通した永松。晴れて未代に向き合おうとした彼だったが、その頃「マートル」を訪れていたのは、ほかならぬ園井であった……。
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恋愛あり、笑いあり、涙ありのヒューマン・ドラマだが、一貫しているのは作中にただよう優しく、他者への思いやりに満ちた雰囲気だ。「自分の大切な人に会う」という、以前できていたことがなかなかできなくなり、何かと他者への批判の声が飛び交うぎすぎすした世の中だからこそ、この作品で描かれている「人のぬくもり」は強く印象づけられる。
家族や友達などに、「久しぶりに連絡してみようかな」と思わせてくれる一作だ。(新刊JP編集部)
※本記事は、「新刊JP」より提供されたものです。