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三浦展「繁華街の昔を歩く」

セレブな街・二子玉川が、昔どんな街だったか知っていますか?

文=三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表

セレブな街の昔は?

 二子玉川というと、今はマツコ・デラックスも嫌うほどのセレブな街として、全国的にも有名である。1969年に日本初の郊外型ショッピングセンターといわれる玉川高島屋が開業して以来、東急田園都市線の一大商業拠点となり、近年はオフィス街、タワーマンション街としても発展している。たしかにファッション雑誌から抜け出てきたかのような美しい女性が多い。

 しかし、この二子玉川、昔は多摩川沿いの行楽地であり、料亭、旅館など十数軒が並ぶ三業地もあった。なかでも1918年に開業した水光亭は二子玉川を代表する料理屋旅館であった。図面を見ると2階建てで20部屋ほどもある大規模な建物である。庭も広く、映画の撮影にも使われた。敷地の北西には別館もあったが、これは三菱の岩崎家の所有であったものが、この地へ移築され、藤田という人の所有になっていたが、これを水光亭が借用したという。

セレブな街・二子玉川が、昔どんな街だったか知っていますか?の画像1最近の二子玉川駅周辺

鮎漁で行楽をする土地に遊園地が発展

 歴史をさかのぼると、多摩川は江戸時代には鮎漁が盛んであり、人々は漁を見物しながら川辺で遊ぶというスタイルで行楽を楽しんだらしい。それが明治末期以降、行楽地として発展したのである。発展に寄与したのは渋谷から二子玉川までの玉川電気鉄道の敷設(1907年)である。鉄道開業までは亀屋という料理屋が一軒あるだけだったらしいが、開業後は十数軒に増えた。

 また沿線における会社員、軍人、官吏などの中流階級の増大も発展に寄与した。彼らは家族とともに日曜日に休むというライフスタイルを持っていたため、自然の豊かな郊外の二子玉川も行楽地として人気を得た。

 1909年には、玉川電気鉄道は玉川村瀬田の地主から7000坪の土地を借り入れて遊園地を開業した(「玉川第一遊園地」という)。この遊園地には、川沿いの田んぼを整備してつくった菖蒲園があり、小鳥、猿、鹿などの動物がいたらしい。河原には兵庫島という小さな島が今もあるが、ここも散策路として整備された。都会の仕事で疲れる中流階級たちが、自然の中でリラックスする場所だったのであろう。

 この遊園地は、経営を1913年から17年までは浅草の花屋敷の経営者である大瀧勝三郎に委ねた。大滝は自然散策型だった遊園地をより娯楽的なものに変えていった。清水の舞台を模した「玉川閣」など十数棟の建物(今風に言うとパビリオン)を建て、そこに演芸場もつくった。それらの建物は1914年の東京大正博覧会で使用されたものを移築したものだ。また玉川閣は、演芸のない日には料理屋から料理を取り寄せて貸席としても使われたという。

 1918年には二子玉川駅から遊園地までの道沿いに、桜の木が百数十本植えられた。また児童用の遊具が設置され、グラウンドがつくられて青少年の運動会も行われるなど、遊園地全体が子ども向けに整備されていった。21年には遊園地内ばかりか兵庫島、多摩川沿岸でイルミネーションを設置したというから、なかなかモダンな遊園地になっていったのである。

三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表

三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表

82年 一橋大学社会学部卒業。(株)パルコ入社。マーケティング情報誌『アクロス』編集室勤務。
86年 同誌編集長。
90年 三菱総合研究所入社。
99年 「カルチャースタディーズ研究所」設立。
消費社会、家族、若者、階層、都市などの研究を踏まえ、新しい時代を予測し、社会デザインを提案している。
著書に、80万部のベストセラー『下流社会』のほか、主著として『第四の消費』『家族と幸福の戦後史』『ファスト風土化する日本』がある。
その他、近著として『データでわかる2030年の日本』『日本人はこれから何を買うのか?』『東京は郊外から消えていく!』『富裕層の財布』『日本の地価が3分の1になる!』『東京郊外の生存競争が始まった』『中高年シングルが日本を動かす』など多数。
カルチャースタディーズ研究所

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