子どもの街と大人の街
もちろん、鮎漁を屋形船や座敷から眺め、捕った鮎をさっそく賞味しながら宴席を囲むという江戸時代以来の娯楽も続けられた。そうした遊び方はかつては富裕層だけのものだったが、玉川電車の開業以後は中流階級にまで大衆化した。遊園地とともに鮎漁と料理屋を家族で楽しむことも増えたのではないかと思われる(高嶋修一『近代の二子玉川における行楽の展開』における説)。
1918年になると玉川電気鉄道自身が料理屋経営に乗り出した。多摩川沿いにある東京信託株式会社が所有する喜月楼という料亭を買収し、新たに経営を委託した先が前述した水光亭だったのである。水光亭では料金を安めに設定したため、人気が出て、1920年には増築が必要なほどになった。
遊園地も人気が増し、1922年には「第二遊園地」をつくることになる。1985年まで存在した二子玉川園という遊園地の前身である(場所は駅の東側)。今度は青少年、児童用に特化し、噴水、プール、テニスコートもつくられた。プールには500席の観覧休憩所と、定員1000人の観覧台が設けられた。場所はかつての二子玉川園、今はオフィスビルやタワーマンションが建っている場所だ。
また園内には27年に「家族館」も設置され、館内に各種娯楽施設が備えられたというが、具体的には何かわからない。おそらくは卓球などができるようにしたのかと推測される。さらに31年には子ども向けに林間学校の誘致をするための施設建設も行われたという。
このように、子どもや家族というものが重視されるようになったというところが、この時代の特徴として注目すべき点である。
三業地の盛衰
これに対して第一遊園地のある駅西側には、1932年に日蓮宗総本山見延山関東別院が建立されることとなった。周辺には玉川神社などの寺社が多く、27年には周辺地域が三業地指定を受けていたため、門前町の歓楽街になっていった。つまり駅の東は子どもや家族連れ向け、西は大人の男女の街になったのである。
三業地の景気が良かったのは1933年から35年ごろだという。都心の花柳界と比べれば6割程度の安さで人気があったが、賑やかさは都心には遠く及ばず、「場末」の感はぬぐえなかったようだ。1936年の阿部定事件の定と吉蔵もタクシーで都心から二子玉川まで乗り付け、三業地の待合「田川」で逢い引きをしたのは有名である。
こうした三業地も戦局が厳しくなる1940年になると、料理屋の多くは景気が悪化し、多くは多摩川の向こうにできた軍需工場の労働者のための寮になっていった。戦後は、水光亭は進駐軍の米兵相手のキャバレーに敷地を貸したこともあった。1959年に三業地制度は廃止され、水光亭は富士観会館と名を変えた。近年まで残っていて、電車からも見えたので記憶している方も多いであろう。
(文=三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表)
【参考文献】
世田谷区教育委員会『世田谷区文化財調査報告集 15』2005年