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『粟田、色絵恋模様 京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛外伝』とはどんな物語なのか⁉

文=Business Journal編集部
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『粟田、色絵恋模様 京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛外伝』
『粟田、色絵恋模様 京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛外伝』

明治・大正時代を通じて、粟田焼という京都の焼き物の窯元が、どのように近代化に挑み、苦辛したのかが克明に描かれる一方、それを取り巻く祗園の女性たちの姿を生々しく浮かび上がらせた歴史ロマン小説『粟田、色絵恋模様 京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛外伝』。「京都」「焼き物」「祗園」と一見みやびやかなテーマが軸に展開される同作は、感情豊かな人間ドラマとしても一級品であり、すでに芥川賞作家にも高い評価を受けたという。同作の著者である、粟田焼・京薩摩研究家の錦光山和雄氏に話を聞いた。

ジャポニスムの波に乗り、欧米で一世を風靡した「京薩摩」

――著書の帯で「幕末から昭和にいたる京都の粟田に生きた陶家の人々の怒涛の日々、栄光と挫折、祇園に生きた女たちの愛と確執を描く壮大な歴史ロマン‼」と謳われていますが、「粟田焼」といっても知らない方が多いので、まずは粟田焼はどんな焼物だったのかお話していただけますか。

錦光山 京焼には清水焼などいくつかの窯場があったのですが、寛永元年(1624年)に尾張国瀬戸の陶工・三文字屋九左衛門が、平安神宮から蹴上にかけての粟田に窯を築いた粟田焼が最も古いと言われています。粟田焼は江戸時代中期に最盛期を迎え、将軍家御用御茶碗師の錦光山、岩倉山両家、禁裏御用の帯山家など、登り窯を持つ13軒の窯元がおり、色絵陶器の大成者である野々村仁清の流れをくむ色絵陶器や抹茶茶碗などを盛んに焼き出していたのです。粟田焼がなぜ将軍家御用になったかというと、粟田焼の素地には貫入(かんにゅう)という微細なヒビがあり、飲み物に毒が入っていると貫入が青くなるので、お毒見の役を果たせるからだと言われています。

――京都が焼物の産地ということは知りませんでした。

錦光山 無理もありません。いま「粟田焼」という単語を検索すると、まっさきに平安神宮近くの和菓子屋である「平安殿」の和菓子が出てくるくらいですから。もっとも、その和菓子も「平安殿」のご主人が粟田焼という焼物をしのんで作ったと聞いています。

――粟田焼はその後どうなったのですか。

錦光山 江戸時代に興隆を誇った粟田焼も明治維新にともなう東京遷都で天皇家をはじめ公家や高官などの大口需要家が新都に移ってしまい窮地に陥ります。私の曾祖父の六代錦光山宗兵衛も頭を抱えていますと、ある日一人の外国人が店先に現れ、壷を見せたところ、いきなり足蹴にされます。身振り手真似で問うと、当時はフノリでボテッと描くので、どうやら絵付けが気に入らないようなのです。

 そこで六代宗兵衛は苦心の末、細密描写の可能な絵付け技法による色絵陶器の「京薩摩」を開発、神戸の外国商館から輸出を開始、折からパリ万博などで欧州に衝撃を与えたジャポニスムの波に乗り、「京薩摩」は欧米で一世を風靡するに至ります。

明治17年頃の錦光山商店
明治17年頃の錦光山商店

――粟田焼は輸出に活路を見出したのですね。その後は順調だったのでしょうか。

錦光山 私の祖父・七代錦光山宗兵衛の時代になると、ジャポニスムも終焉を迎え、再び危機に見舞われます。そうした中で、明治33年にパリ万博視察に赴いた七代錦光山宗兵衛はアール・ヌーヴォー(フランス語で新しい芸術)が最盛期を迎えていることを知り、このままで日本の窯業は壊滅的打撃を受けると衝撃を受け、京都市陶磁器試験場設立に奔走し、窯変技法の開発を進め、洋画家の浅井忠らと「遊陶園」という意匠改革団体を組織、デザインの改良に取り組みます。その成果もあり、七代錦光山宗兵衛は本邦初のアール・ヌーヴォー様式の作品を作り上げ、1900年の日英博覧会の頃には最盛期を迎え、年間40万個を輸出するまでになります。

若き日の七代錦光山宗兵衛
若き日の七代錦光山宗兵衛

 このように「京薩摩」は、現在では再現不可能といわれる超絶技巧による華麗で緻密な色絵陶磁器であり、国内では東京国立博物館や京都国立近代美術館、清水三年坂美術館、名古屋の横山美術館、迎賓館の和風別館游心亭などで、海外ではボストン美術館、ヴィクトリア&アルバート博物館、アシュモレアン博物館、韓国国立故宮博物館などに所蔵・展示され、世界の愛好家から賞賛されています。

「色絵金襴手龍鳳文獅子紐飾壺」
「色絵金襴手龍鳳文獅子紐飾壺」七代錦光山宗兵衛(東京国立博物館蔵)
.「白磁色絵花鳥文瓶」
.「白磁色絵花鳥文瓶」七代錦光山宗兵衛(韓国国立故宮博物館蔵)

 このように最盛期を誇った錦光山は、昭和恐慌・金融恐慌の影響もあって昭和10年頃廃業します。このため、粟田に約5000坪あった店舗・工場はなくなり、いまあるのは跡地の路地の「錦光山安全」の祠と粟田神社の「粟田焼発祥之地」の石碑だけでその面影を偲ぶものはほとんど残っていません。なお、粟田焼の盛衰については、私の著書の『京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝 世界に雄飛した京薩摩の光芒を求めて』(開拓社)に詳しく書いていますので、ご興味があればお読みください。

祇園の女たちのたくましい生きざま

――粟田焼のことは大分わかってきましたが、本題のこの小説はどのように展開していくのでしょうか。

錦光山 この小説は、これまでお話してきた七代錦光山宗兵衛の粟田焼の近代化の取り組みを縦糸として、そこに生きた人々の「証し」を描くとともに、横糸として宗兵衛を取り巻く家族や祇園の女性たちの織りなす人間模様を描いています。

――なぜ祇園の女性たちが登場するのですか。

錦光山 それは私の父の母方が祇園に関係があり、父が幼い頃から青年期までの自伝的小説を残していて、そこに当時の花街である祇園の女性たちの愛と確執の入り混じった人間模様がよく描かれているのです。それらの女性は貧しくても健気でたくましく、明治の女性の心意気を表しているので、なんとしても書き残したかったのです。

――その祇園の女性たちというのが、千恵さんでありお民さんなのですね。

錦光山 はい、帯裏に書かれていますが、「十三歳の祇園の舞妓、千恵とお民は、舞妓の店だしの日、巽橋の上で『どっちが祇園一の舞妓になるのか勝負せなあかんのや』と対峙します。そこから二人は京都を代表する粟田焼の窯元・錦光山宗兵衛を巡って争い、思いもよらぬ運命の糸にもてあそばれるように変遷を繰り広げていく…」という形で物語が展開していくのです。

 千恵とお民だけでなく、お茶屋がつぶれて、還暦を迎えたというのに「いくつになっても、一歩踏み出すことが大切なのや」と言って、東京で小唄の哥沢(うたざわ)の修行をはじめる、お蓮という女性も私の好きなキャラです。それにこの小説の舞台は明治時代の京都ですが、「なんで出生の違いで人は差別されなあかんのやろか」「この世の中は女が一所懸命に働いても男の支援なしでは生きていくのは難しいのだろうか」というセリフから分かるように、現代的なダイバーシティというテーマも含んでいて古さを感じさせません。

――それは面白そうですね。刊行後の評判はどうですか。

錦光山  『ダイモンドダスト』で芥川賞を受賞し、映画にもなった名作『阿弥陀堂だより』の著者の南木圭士さまから「この2日間で一気に読了しました。京都の伝統ある窯元の終焉の過程と祇園の女たちのたくましい生きざまが過不足なく描かれており、一級の小説でした。これほど引き込まれた小説には久しぶりに出会いました。時代を担った一族の物語を書き残しておきたい、との二代にわたる強い想いを支えるしっかりとした筆力あっての一冊であり、敬服します」と過分なお言葉をいただきました。

 装幀も、”宗兵衛ブルー”のグラデーションの上に題字が金箔&銀箔押しで作られていて、読者の方から工芸品のように大変美しいと評判上々です。部屋のなかに置くと、心なごむはずです。

 縷々申し上げてきましたが、この小説は、京都を舞台として、13歳の舞妓さん、5歳の男の子が出てくる成長物語でもあります。また危機や逆境にあっても、めげずに生きていく人々の物語でもあり、応援歌でもあります。ぜひ、皆さまに読んでいただけましたら、それにまさる喜びはありません。どうもありがとうございました。

――どうもありがとうございました。


●錦光山和雄(きんこうざん・かずお)
粟田焼・京薩摩研究家。七代錦光山宗兵衛の孫。元和光証券(現みずほ証券)常務執行役員員。著書に『京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝 世界に雄飛した京薩摩の光芒を求めて』。

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