筆者の故郷である埼玉県深谷市には、ちょっと奇妙な銅像がある。甲冑姿の武士が、馬を背負っているというものだ。
この銅像の人物は、畠山重忠。平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍した武将である。怪力で知られた武蔵国の御家人だ。しかしながら、全国的な知名度はいまいちで、平清盛、源頼朝や源義経といった源平合戦の時代のスーパースターと比べると、あまり知られていない。どちらかといえば、脇役キャラだ。
寿永3(1184)年2月。平家追討軍を率いる義経と源範頼らは、摂津国福原(現在の兵庫県神戸市)で、崖の上から平家軍を急襲した。一ノ谷の戦いにおける「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」である。
この時、畠山は愛馬・三日月を背負って鵯越の崖を降りたという。『源平盛衰記』によれば、義経軍の搦手(からめて:敵陣の後ろ側から攻める軍)に属していた畠山は、「馬をけがさせてはいけないから」と、三日月を背中に乗せた。後世、さまざまな錦絵にも描かれる名シーンである。
冒頭に紹介した深谷市の銅像は、この時の場面を再現したものだ。しかし、よく見ると、この銅像は馬が不自然なほど大きい。これでは、まるで畠山が馬に襲われているようにも見える。
筆者はそう思い、馬について調べてみると、面白いことがわかった。
現在、私たちが見慣れている、脚がすらっと長い馬は競馬用のサラブレッドだ。ひたすらに速く走るためだけに、改良に改良を重ねた末に生み出された馬である。サラブレッドは、肩までの高さが160~170センチほどで、体重は約450キロもある。
いくら畠山が力持ちとはいえ、このサイズの馬を背負って崖を降りるのは無理があるだろう。現在の重量挙げ(クリーン&ジャーク種目)の世界記録は、2004年のアテネオリンピックでイランのホセイン・レザザデ選手が樹立した263キロであることを考えても、あまりに非現実的といえる。
実は、現代のサラブレッドは、源平合戦時代の日本には1頭もいなかった。サラブレッドが日本に初めて持ち込まれたのは江戸時代の後期で、当時の徳川幕府を支援していたフランスから献上されたといわれている。
当時の日本には小型馬しかいなかった
では、当時の日本にいた馬は、どのような姿だったのだろうか。
昭和28(1953)年、神奈川県鎌倉市の建設現場から、500体以上の人骨と100本以上の馬の骨が見つかった。これは、正慶2(1333)年に新田義貞が「鎌倉攻め」をした時の戦死者とみられるが、馬の体高を復元したところ、結果は平均130センチだったという。
つまり、源平合戦時代の武将が乗っていた馬は、ポニーのような小型馬であり、現代の私たちがイメージするサラブレッドとはかけ離れた姿だったのだ。しかし、銅像にする際には、それでは迫力が足りないと考えたのか、現代のサラブレッド型の馬にしたのだろう。
現在、東京都恩賜上野動物園に行くと、日本在来種の馬が飼育されているのを見ることができる。その姿は、頭でっかちで脚が短く、なんとも愛らしい。飼育係に聞いてみると、木曽馬の体重は250キロ程度だという。これなら、畠山が怪力を発揮し、なおかつ馬が暴れなければ、なんとか背負えたのかもしれない。
(文=青木康洋/歴史ライター)