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武田鏡村「本当はそうだったのか 歴史の真実」

本能寺の変で、巨大アフリカ人が戦っていた!織田信長の家来「弥介」?日本語も操る

文=武田鏡村/作家、日本歴史宗教研究所所長

本能寺の変で、巨大アフリカ人が戦っていた!織田信長の家来「弥介」?日本語も操るの画像1日本に到来した南蛮人と黒人の姿(「Wikipedia」より/Epiq)
 織田信長が、アフリカの黒人を家来にしていたことをご存じだろうか。

 かつて、ある国会議員が長身の黒人を秘書にしていたことがあるが、信長は身長190センチもある黒人を常に従えて、周囲を驚かしていたのである。信長の側近が書いた『信長公記』には、以下のような記述がある。

「きりしたん国より黒坊主、参り候。年の齢二十六、七と見えたり。惣の身の黒きこと、牛のごとく。彼の男、健やかに、器量なり。しかも強力十の人に勝たり」

 これは「キリシタン国から黒人がやってきた。年齢は26~27歳と見える。全身は黒い牛のようである。この男は壮健であり、その力は10人分より優れている」という意味だ。

 この黒人には「弥介(やすけ)」という名前がつけられていた。徳川家康の家臣で深溝(ふこうず)領主の松平家忠が書いた『家忠日記』には、武田勝頼軍を滅ぼし、東海道から安土に凱旋する途中の信長一行の様子が書かれているが、以下のような記述がある。

「上様御ふち候、大うす進上申し候、身は墨のごとく、丈は六尺二分、名は弥介という」

「信長が扶持を与えている(家来にしている)。ダイウス(デウス:創造主)といわれたキリスト教宣教師が進上した。体は墨のように黒く、身長は六尺二分(約182センチ)。名前は弥介という」といった意味だ。

 この黒人は、『信長公記』に出てきた黒人と同一人物だ。信長から弥介と名づけられた黒人は、どのような経緯で信長の家来となり、信長の死後はどうなったのだろうか。

 また、キリスト教の宣教師に、まったくの異国である日本に連れてこられた弥介は、何を見て、何を感じたのだろうか。残念ながら、今となってはそれを知るすべはない。

見知らぬ黒人を気に入った信長

 弥介を連れてきたのは、日本で布教を行う宣教師の監督役として、イエズス会から派遣されたアレッサンドロ・ヴァリニャーノだ。

 彼は、まず九州各地を視察する。この時、島原領主の有馬晴信が、キリスト教への入信を条件に、ポルトガル船から武器と弾薬を求めた。これに対して、ヴァリニャーノは航海司令官を動かして軍事援助を行っている。晴信の入信により、教会の拠点および布教の拡大を図ろうとしたのだ。

 これを知った大村領主の大村純忠は、ポルトガル貿易の港が自領から有馬領に移されることを懸念した。そこで、ヴァリニャーノに対して、長崎をイエズス会に寄進することを申し出た。長崎を外国の教会領としておけば、隣国から狙われる心配もなく、ポルトガル貿易を続けることができると考えたのである。

 ヴァリニャーノは、この申し出を受け入れた。それによって、日本史上初めて国内に外国の領地ができたのである。自分の利益だけを考えていた純忠は、教会領を拠点にして植民地化を進める、ヨーロッパ諸国の侵略手法を見抜くことができなかった。のちに九州を平定した豊臣秀吉は、その思惑を知って激怒、教会領を没収して宣教師の追放令を出すことになる。

 やがて、ヴァリニャーノは京都で信長と接見する。この時、信長はヴァリニャーノが連れていた黒人に異常な興味を示したという。全身が真っ黒ということで、京都では一目見ようとする群集が、南蛮寺といわれた教会堂に殺到し、けが人まで出る騒ぎだった。

 以前、フランシスコ・カブラルという宣教師が眼鏡をかけていたことから、「4つの目を持つ人間がいる」と、岐阜城下の宿舎に数千人が集まったことがあった。この黒人の出現も、同じような驚きをもって迎えられたようである。

 信長は、「黒人の肌は自然なものではなく、墨を塗ったものだろう」と考えて、体を洗わせた。すると、肌はこするほどに黒くなった。そこで、信長は自然な肌であることを理解し、彼が少し日本語を話せたため、飽きることなく語り合ったという。

「信長は、黒人のことをすっかり気に入った」と見たヴァリニャーノは、さらに歓心を買って布教をスムーズに行うために、黒人を信長に献上した。当時は、宣教師といえども、黒人を奴隷として売買していたのである。

本能寺の変でも戦った弥介

 その後、信長は本能寺で明智光秀に急襲されて命を落とす。この時、本能寺の近くの南蛮寺にいたフランシスコ・カリオンという宣教師は、弥介が刀をとって明智勢と戦ったという報告を残している。

 それによると、弥介は明智勢を相手に交戦していたが、本能寺内の信長勢は次第に討ち取られていった。信長の死後は、残兵が妙覚寺に退避した際に同行、妙覚寺が明智勢に取り囲まれて白兵戦になった時も戦っている。

 しかし、早朝からの戦いで疲労困憊していたのだろう。路上で息を継いでいた時、明智勢の兵から「その刀を差し出せ」と迫られ、素直に渡して捕らえられたという。

 弥介の処置を尋ねられた光秀は、「黒奴(こくど)は動物で何も知らず、また日本人でない故、殺さずに南蛮寺に戻せ」と言ったという。この黒人のことを、信長は家来にしたが、光秀は動物と見たのである。この認識の違いは、信長と光秀の、人間と文明に対する価値観の差異を示している。

 遠いアフリカ大陸から日本に連れてこられた弥介は、戦国時代の大事件に遭遇したが、その後はいずこともなく姿を消してしまったようだ。
(文=武田鏡村/作家、日本歴史宗教研究所所長)

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