自動車社会の現代人が主要幹線道路としてももてあます、これらのだだっ広い道が、平安京には東西方向に11本、南北方向に9本もあった。とくに極端だったのは、都を東西に二分し、南北方向に通る朱雀(すざく)大路である。この大通りは、一般的な大路の3倍近い82メートルもの幅があった。ここまで来ると、実用面では有害とさえいってよい。
平安京がこのように実用性に欠く構造だったのは、その本質が天皇の権威や尊さを物体化させた「威信財」だったからだと、歴史学者の桃崎有一郎氏は著書『平安京はいらなかった』で指摘する。威信財とは、所有者の威信を他者に見せつけることを最大の役割とする財産であり、そこでは実用性は二の次となる。したがって、威信を示すためなら実用性は容易に犠牲にされる。
威信を示したのは、街路の巨大さだけではない。平安京の物理的構造は、天皇を頂点とする身分制度と密接な関連があった。身分が高いほど、邸宅の面積が広く、邸宅が面する街路の規模は大きく、大内裏(宮城)のある北に近く、中心線である朱雀大路に近い。天皇との身分的な距離である位階と、天皇との物理的な距離が比例し、大内裏を中心とする身分的な同心円が描かれていた。
平安京の教訓を現代に生かせない日本
しかし、実用性を無視し、設計を上から押しつけられた平安京はやがて、都市としての欠陥があらわになっていく。平安京では、自宅前の路面清掃は法的義務だった。また、街路樹の植樹・整備も沿道の住人が法的に責任を負った。天皇の威信を示したい朝廷にとって、美観こそ生活に優先する平安京の存在意義だったからである。
ところが、平安遷都からわずか20年余りしかたたない頃である。街路の美観を保つために建てられた垣に、京の住人が穴をあけ、街路沿いの水路から勝手に水を自宅内に引いたり、水路をふさいで流れを妨げ、街路を水浸しにしたりするようになる。朝廷は、むち打ちの刑などでこれらの行為を罰したが、破壊や汚損は一向に改善されなかった。
生活の利便を目的とする住人の破壊・改変は、京中の各所に及んだ。メインストリートである朱雀大路では、住人が牛馬の放し飼いを行うようになる。広大な朱雀大路は牧場として十分使えたのである。牛馬の糞に閉口してか、朝廷はわざわざ人夫を雇用し、朱雀大路の両脇に掘られた溝を掃除するよう命じている。