2011年3月11日に発生した東日本大震災から10年を迎える。この震災では、津波により東京電力福島第一原子力発電所事故が起き、当時の民主党政権は未曾有の大災害に直面することとなった。現在、国は福島第一原発の廃炉作業を進めているが、その道のりは遠く、震災当日に発令された原子力緊急事態宣言はいまだ解除されていない。
そんな中、3月6日に『原発事故“最悪のシナリオ”~そのとき誰が命を懸けるのか~』(NHK Eテレ)が放送された。同番組は、当時の菅直人首相、細野豪志首相補佐官、北澤俊美防衛大臣、アメリカ原子力規制委員会の幹部、在日米軍連絡将校、自衛隊統合幕僚監部運用部長など総勢100名以上に取材を重ね、それぞれが極秘に作成に着手していた「最悪のシナリオ」の行方と、「誰が命を懸けて原発の暴走を止めるのか」という究極の問いを追った内容だ。
「同番組が放送されたのは『ETV特集』という枠で、この日は30分拡大の“スクープ・ドキュメント”と銘打たれていました。独自取材による関係者の証言と事実を積み重ねていく構成と無駄のない展開に、視聴者からは『NHKの本気を感じる』『衝撃的内容で全国民必見』『これ、Nスペ(NHKスペシャル)で放送すべき番組じゃないの?』『土曜夜にEテレでひっそり流す内容ではない』などという声が上がりました。ちなみに、10日深夜の11日0時から再放送されます」(週刊誌記者)
同番組では、当時の政府関係者から「1号機の爆発を受けて、東電は福島第一原発から撤退しようとしていた」という複数の証言が出てくる(東電は事故調査報告書で否定)。しかし、菅首相は東電本店に出向いて「撤退は許されない」と演説を打つ。当時の様子について、首相補佐官を務めていた寺田学氏は「敵陣に乗り込んで行って、こちら側の意志を強く示した」と表現した。
結局、2号機で爆発音がしたことを受けて、50名程度を残して福島第二原発に退避するという連絡が入る。寺田氏の証言によると、そのとき菅首相は「給水の者だけは残せ」と命じたという。同番組では、国家が労働者(東電)に対して留まるよう指示することについて、憲法18条(何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない)を持ち出し、「突き詰めていくと、こういう問題と抵触する可能性もあるじゃないですか」と菅氏にぶつけた。
しばし沈黙した菅氏が絞り出したのは、「当時、個別的な条項のことまでは考えてません」「ある種、超法規的なことだったと思います」「しかし、国の責任としてやらざるを得なかったと今でも思っている」という答えだった。
その後、自衛隊による放水作戦が行われ、東電本社で政府側と東電側による非公式会議が開かれる。そこで、東電から驚くべき提案がなされた。細野氏が現状を説明した後、当時の勝俣恒久会長から多くの要求があり、さらに「自衛隊に原子炉の管理を任せます」との発言があったという。
これに対して、当時の自衛隊統合幕僚監部運用部長の廣中雅之氏は「そんなことができるわけがない。我々はそういった知識も経験もないし、役割もない」「それは、監督官庁である経済産業省のもとで東京電力にがんばってもらうしかない」と反論した。
同番組によると、勝俣氏の発言について東電は「確認できない」としており、勝俣氏にも取材を申し込んだが、返答はなかったという。
そして、自衛隊もアメリカ側も“最悪のシナリオ”の作成に着手する中、首相官邸の一部が主導する形で「不測事態シナリオの素描」が科学者グループによって作成され、細野氏によってアメリカ側と共有される。
しかし、それは政府全体では共有されず、一部の幹部のみが閲覧したという。実際、取材陣からシナリオを手渡された北澤元防衛相は一枚一枚めくった後で「見てない」と首を横に振った。このシナリオが国家の危機管理を担う防衛相にすら共有されなかったことについて、北澤元防衛相は「そりゃ、まずいわな」「最前線に部隊を投入している防衛省に見せないってことは、極めて遺憾な話だな」と語り、「菅内閣の対処の仕方っていうのは、よく検証して、後世に残しておく必要があるよね」と発言した。
当時について、菅氏は「私は別に隠すつもりはなかったけど、全然」「特に私が抑えたという意識はまったくない」と語り、取材陣の「国民に対しても、ですか?」の問いに「もちろん、もちろん」と答えていた。
同番組のテーマであった「そのとき誰が命を懸けるのか」という問題は、震災から10年が過ぎた今でも宙に浮いているのではないだろうか。
(文=編集部)