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忍者、空前の争奪戦で不足が深刻化

構成=長井雄一朗/ライター
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――そもそも、なぜ忍者の里は伊賀と甲賀だったのでしょうか。

立石 両地域とも、作物が取れないことに関係しています。そのため、出稼ぎの手段として忍者を生業にしたのでしょう。

 ただ、忍者には美学や美意識があり、確かにお金で雇われてはいましたが、同時に高いプロ意識も持っていました。君主のために徹底した諜報活動を展開し、徹頭徹尾従って忠誠を誓っていました。忍者には精神性の高さや潔さも備わっていたのです。

松尾芭蕉は忍者だった?

――忍者の活動時期は、いつ頃だったのでしょうか。

立石 1550年頃から江戸幕府成立までが、本格的に活躍していた時代です。しかし、最近の古文書の発見などで、徳川家光の時代である島原の乱でも堀の深さの調査を行っていたほか、幕末から明治維新にかけても忍者が活躍した足跡が明らかになっています。

 江戸時代でも、長野県の松本藩や岡山県の岡山藩に忍者の記録があることから、長期的に見れば室町時代後期から江戸時代まで活動していたと考えられています。「お城のあるところに忍者あり」という言葉もありますから、幕府も各藩も、江戸時代でも盛んに諜報活動を続けていたと推察しています。

 実際、甲賀忍者は紀州藩に召し抱えられていたので、7代将軍家継が死去後の後継をめぐって紀州藩主の徳川吉宗と尾張藩が対決しますが、忍者同士で熾烈な情報合戦があったのかもしれません。ほかにも、江戸城本丸御殿最大の検問所には「百人番所」があり、伊賀組・甲賀組などが交替で将軍を守っていました。

 明治維新以降は、忍者を生業とする方々は断絶したと聞いています。先祖が忍者だったという方も、今は一般の生活をされています。

――「松尾芭蕉忍者説」についてはいかがでしょうか。『奥の細道』を見ると、明らかに怪しい動きをしていますが。

立石 芭蕉は伊賀出身です。地元の伊賀では否定説を唱える方も多く、一概には言えませんが、「芭蕉が忍者だった」という説にはロマンがあります。おそらく、外国人の方が忍者に憧れているのも、そこにロマンがあるからではないでしょうか。

 ロマンといえば、徳川家康と豊臣秀頼が対決する「大坂の陣」では、堀の深さの調査をし、和議を行いつつも、堀を埋め、淀君がいる場所に大砲を撃つなど、徳川方は効果的な攻撃や謀略を張り巡らしますが、そこに忍者の影があったと考えることもできますね。

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