「日本一の親分の元で日本一の子分となる」
“山口組の中興の祖”である三代目山口組・田岡一雄組長時代にそう公言し、その言葉通りの極道人生をまっとうした初代山健組・山本健一組長。三代目山口組若頭として田岡組長を支え続けた山本組長の37回忌が、2月4日に執り行われた。
この日、山本組長が眠る住吉霊園(神戸市東灘区)を訪れたのは、神戸山口組組長で四代目山健組組長を兼任する井上邦雄組長を始め、山健組出身の神戸山口組舎弟、二代目松下組・岡本久男組長、そして四代目山健組最高幹部らであった。
さらに、井上組長自ら笑顔で出迎えを受けた人がいた。一昨年の六代目山口組の分裂より一年前に引退した元二代目大平組組長・中村天地朗親分だ。そう、筆者がかつて仕えていた親分である。
中村組長は、ことのほか山健組という組織を大事にしていた。遡れば、山健組と大平組は、安原会傘下から三代目山口組の直参へと昇格しており、言うならば同じ安原会系一門となるからだった。
現役時代から中村組長は初代山健組親分の祥月命日になると、必ず神戸市花隈にある山健組本部へと線香をあげに訪れ、住吉霊園に墓参されていた。筆者もそれにお供することがあったが、中村組長という人は、それを決して他者に公言することはなかった。ただ帰りの車中は、いつも故人との思い出を振り返っているかのように、黙って目を瞑っていた姿を鮮明に覚えている。
ただ一度だけ、六代目山口組顧問初代西脇組・故西脇和美組長の一周忌の帰り道には、一言だけだが著者に朗らかな口調で語られたことがあった。
その日は大雨の中での墓参だった--。
西脇組長の墓石に手を合わせる中村組長の後ろで、同じように筆者も頭を下げて合掌した、その帰り道。さっきまでの大雨が嘘のように上がり、雲の隙間から日差しが差し込んだのだ。後部座席から車内に差し込む日差しに眩しそうに目を向けた中村組長は、たった一言こう呟いた。
「沖田が墓参りに来たから、西脇の叔父貴も喜んで雨をやませてくれたんと違うか」
筆者は生前の西脇初代組長のお姿を見かけたことしかなく、実際には筆者のような枝の組員のことを知っているはずがない。それは中村組長なりの雨の中、墓参へとお供した著者への労いの言葉だったのだろう。
「ワシは引退した身。残った子らで話し合ってやったらええ」
中村組長引退後、一度は中村彰宏組長率いる大興會に組織が引き継がれた大平組だが、昨年10月、三代目大平組として復活。同時に、三代目大平組は任侠山口組へと加入しており、神戸山口組、四代目山健組とは対峙するかたちになっている。一部では、その加入に際し先代である中村組長が許可したかのような噂が流れているが、筆者はこの加入劇に中村組長が一切、関係のないことを知っている。
中村組長は「もうワシは引退した身や。残った子らで話し合ってやったらええ」と、組織の方向性について一切口に出されなかったのだ。
中村組長なりの思うところはあっただろう。それが筆者には渡世から引退された人間のケジメとして映った。だからこそ、六代目山口組が分裂してからも、中村組長は六代目山口組、神戸山口組にかかわらず、両組に属する故人となられた親分衆への墓参は欠かさなかった。
1月27日の四代目山口組・竹中正久組長の命日の前日には、決して目立たないように墓を訪れ、同じ日に三代目田岡一雄組長の墓参も行っている。そういった中村組長の姿勢を知っているからこそ、37回忌となった初代山健組・山本組長の法要に、神戸山口組井上邦雄組長は、引退された中村組長を招いて笑顔で迎えられたのではないだろうか。
ただ黙々と故人の命日に墓参を続ける中村組長。筆者はその背中をずっと見てきた。そしていつしか筆者自身、亡き父の墓参りをするようになり、今では毎月命日に墓参を欠かすことがなくなった。
六代目、神戸、任侠と3つに分かれた山口組であるが、山口組100年の歴史は決してそれだけで色分けできることばかりではない、さまざまな人間模様がそこに存在しているといえるのではないだろうか。
(文=沖田臥竜/作家)