阪神淡路大震災から23年を迎えた1月17日は、山口組初代組長、山口春吉氏の祥月命日と重なる。そのため、神戸市北区鵯越にある春吉組長が眠る霊園には、六代目山口組本部長である森尾卯太男・大同会会長を筆頭に、複数の最高幹部らが墓参に訪れたことが捜査関係者によって確認されている。
山口組をつくった親分が、春吉組長であることは山口組組員である以上、誰しもわかっていたことだ。だが、六代目体制になって新たな肖像写真が事務所に飾られるようになり、山口家の墓所がきれいに整備され、幹部たちが墓参を欠かさないようになったことで、各組員はあらためて、春吉組長が歴史上の人物という遠い存在ではなく、自分たちの組織の創設者という、身近な人物として敬う意識が強くなったといえるのではないだろうか。
そうした六代目体制のなかで著者自身、現役組員のころには、いくどか春吉組長の墓参へ所属する親分に同行させていただいたことがあった。また親分が社会不在を余儀なくされていた時には、その代理で墓参させていただいていた。そこで、「兄弟に変わりはないか?」と、兄弟分である筆者の親分の状況を気にして声をかけてくださったのが、現神戸山口組・井上邦雄組長であった。
その後、六代目山口組・髙山清司若頭が到着すると、場の空気が瞬時にして張り詰めたことを肌で感じたこともあった。この緊張感こそが、髙山若頭が六代目体制における絶対的指揮官であることを、著者のような組員にまで感じさせる要因だったのだ。
「組織のためと思えば、妥協や私情を一切挟まず、例え古参幹部に対しても確固たる決断を示す人物」--。髙山若頭とは、ある六代目山口組系幹部がそう語っていた通りの人物なのだろう。逆に言えば、それほどの決断力がなければ、山口組という巨大組織の若頭は務まらないのかもしれない。
話を戻すが今回、墓参をすませた森尾会長一行はその後、供養塔のある灘区の総本部へと入り、午前10時には雨の中、作務衣姿の六代目山口組・司忍組長が自ら傘を差しながら供養塔に手を合わせ、祥月命日がしめやかに執り行われたようだ。
一方で神戸山口組では、墓参にあたっての姿勢も六代目山口組とは異なると神戸山口組関係者は話す。神戸山口組には「遺族と寄り添ってこそ故人の供養になる。遺族と食事会をしながら、故人の冥福を祈るべき。組織的に墓参をするのは時代に沿わない」との考えがあるという。同じく墓参を行わなかった任侠山口組についても、別の方針があるのではないだろうか。
山口組に影響をもたらす五社会の行方
春吉組長の祥月命日が執り行われていたその頃から、業界関係者の間で“ある情報”が飛び交っていいる。それは「五社会がなんらかの方針を示すのではないか」というのである。
五社会とは、中国・四国地方の独立組織5団体からなる親睦団体で、加盟組織は五代目共政会、三代目俠道会、五代目浅野組、七代目合田一家、親和会(順位不同)となる。そもそもは反山口組組織の集まりだったが、現在では五代目共政会が六代目山口組・司組長の後見を、七代目合田一家が六代目山口組・髙山若頭の後見を受けており、親和会が六代目山口組系幹部と兄弟分であることなどから、六代目山口組との関係性が深いといわれている。
一方で三代目俠道会・池澤望会長は、神戸山口組若頭である寺岡修俠友会会長と兄弟分であることや、五代目浅野組と神戸山口組の中枢組織である四代目山健組との親密な関係性から、六代目山口組より神戸山口組との親睦が深いとみられていたのだ。ヤクザ事情に詳しいジャーナリストは、このように解説する。
「分裂以前から浅野組と山健組は親戚関係を結んでいたといわれている。三代目浅野組の故串田芳明組長は早くから、ヤクザ同士が争うのではなく共存する道を探ってきていた。それゆえ、山健組が六代目山口組から割って出た後も、その縁を大切にしていたのではないか」
こうして加盟組織のなかでも、各山口組との関係性に異なりを見せていたということになる。
一説には、五社会の各組織は過去の抗争の反省から、近年では強固な絆で結ばれており、解決の糸口が見えない山口組分裂に対して、歩調を合わせていくのではないかと囁かれているようだ。だが、どのような歩調をとっていくのかという肝心な点については不明だ。
3つに割れた山口組に対して、少なからず影響力を持つ五社会が、なんらかの統一的な姿勢を示すことは、山口組分裂劇の終焉の前触れとなるか、また新たな局面の始まりともなりうる。
ほかにも、武闘派組織の最高幹部の除籍も囁かれており、ヤクザ業界全体が2018年に入り水面下で急速に動き出したように感じられる。
(文=沖田臥竜/作家)